新刊紹介 | 単著 | 『溝口健二論 映画の美学と政治学』 |
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木下千花(著)
『溝口健二論 映画の美学と政治学』
法政大学出版局、2016年5月
著者が英語で書いた博士論文を、全面的な改稿したものが本書である。
溝口健二。1898年に生まれ、1956年の早すぎる死まで――『滝の白糸』などのサイレント映画から、『祇園の姉妹』などのトーキー初期傑作群をへて1950年代の傑作群に至るまで――この日本を代表する映画作家の赫々たるフィルモグラフィについて縷説には及ぶまい。著者はこの巨匠に「間メディア美学」(8頁)の視点から切り込んでいく。すぐれた監督論はつねにそうだが、本書もまた、映画というメディア(本書にならえば「ミディアム」)についてラディカルな再定義を要請する。
溝口の監督作は応援監督なども含めれば100本に垂んとし、サイレント期から活躍していた監督たちと同じく、プリントが現存しないものも多い。本書ではプリントの現存しない『唐人お吉』から『折鶴お千』、『浪華悲歌』、『残菊物語』そして『女性の勝利』から始まる占領期のいわゆる「アイデアピクチャー」の諸作、そして大映における海外映画祭出品を視野に入れつつ制作された『近松物語』などの「歴史映画」まで、いくつかの作品を結節点としつつも、溝口の全作品をほぼ網羅しつつ、「演劇や文学、絵画といった他メディアと競合し、他メディアの規範に身を委ね、横領することで映画というミディアムを再定義してその可能性を拡張し、「芸術」としての社会的地位を高めた」(6頁)このたぐいまれな映画作家の肖像を見事に描きあげた。
本書の白眉は第7章において展開される「妊娠」の主題をめぐる「演出(ミザンセヌ)」分析だろう。女性の身体、とりわけその交換(トラフィック)を通して、権力とジェンダーとの交錯ぶりを粘り強く考察していく。「フェミニズムと女性嫌いに引き裂かれたがゆえに生まれる溝口健二の作品」は、著者の言葉を用いればどれもきわめて「両義的」であり、さらにいえば矛盾を内包しているものである。しかしそれを切り捨てることはなく、「冷たいのに熱く、距離があるのに生々しく、目をそらしたいのに魅入られる、鬼火のようなイメージであった」(518頁)と結ぶ。「鬼火」という光と影(生と死)のあわいを揺曳するイメージに溝口映画を結晶化させていくところに、著者の溝口に対する深い理解と感応がうかがわれる。
蛇足ながら個人的なことを少し。大学院の先輩である木下さんが何かの会話のおり、ふと、「溝口って、リテラルに馬鹿馬鹿しいところがあるんですよねえ」と仰有っていた(『東京行進曲』のなかで、鹿の角の影が、残忍な性格の男のシルエットの、ちょうど頭の部分に重なり、鬼のような男が文字通り「鬼」になってしまうという、それこそ馬鹿馬鹿しい場面への言及ではなかったか)。真面目(なだけ)では溝口はダメ。そう判断されたのか定かでないが、本書の思いきりのよい書きっぷりには巧まざるユーモアが横溢している。いったい今まで、夏川大二郎の丸顔をドラえもんのようだと断じた映画研究者がいただろうか。木下さんは「文字通りに」を「リテラルに」と書かれる。「リテラル」さを重んじる厳格さと、それを横文字でいうことで生まれるライトさのバランス感。木下さんの明るく機知に富んだ話しぶりが脳裡をよぎる。本書の美質もこの厳密さとライトさとが矛盾なく同居する批評精神にあるように思われてならない。(大久保清朗)