小特集 | 研究ノート | ポストミュージアム、あるいは閉館後の美術館で |
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ポストミュージアム、あるいは閉館後の美術館で
原島大輔
たとえば、いま夜中の25時過ぎ、無性に甘ったるい炭酸の栄養剤が飲みたくなって、しかし冷蔵庫の中にはその買い置きもなければ、替わりになるようなものさえ何も見つからなかったとしても、わたしはその飲みたいという欲求を我慢することに耐えてやり過ごさなくてはいけない必要などまったくなく、たいした距離でもないたかだか歩いて数分のコンビニまで買いに行けば、それで難なく苦もなく満たされる。かつて帰り際、ふとしたはずみに頭から離れなくなってしまった曲を聴きたくて、そのCDを買えるかどうか、新宿のレコード屋にぎりぎり駆け込んだり、間に合わずに悶々としたまま家路について懸命に思い出そうとしたり忘れようとしたりしていたのに、ゆうべ友達に教わったアーティストの曲を家に帰ってからネットで聴いたら期待以上に胸を打たれて、ひと晩中さんざん動画をあさったあげくまだ聴き足りなくて朝にMP3を買って聴きながら出掛けている。あっさりとしたものである。ネットワークはいつでも開いているから。
ミュージアムは早く閉まる。ミュージアムは見なかったことにすることを教えてくれる。聞かなかったことにすることを教えてくれる。知らなかったことにすることを教えてくれる。すでにこの部屋にある本ですらもはやわたしにはすべて読むことはできないだろう。ましてや図書館にインターネット。結局わたしは、すべてを知ることはないだろう。だが、それでいい。もとより、それを受け入れるより他ない。しかしわたしはそれがそうかもしれないと思いもかけず現実味をもって実感されるたびに、とてもおそろしくなるし、ふだんはきっとそんなはずないとどこかで信じているのではないだろうかと気づく。わたしは何を見なかったことにすることでわたしでいられているのか。全部見なくてもよい。全部見ようとするとろくなことにならない。閉館時間があることと、それを技術で管理することとは、違うのだ。全部見ようとしても見られないから、崇高を生み出さずにはいられない。何でもあり、見放題、聴き放題、やりたい放題、となると、かえって制約を欲望してしまう。すでに制約はあるのにもかかわらず。フリーがコントロールに反転する。
わたしたちの可能性の条件の観察は事故であり事後である。失敗より以上に生命を突きつけてくるものもない。きっと他にもあったとしても、エントロピーの想像力がそれを見せてくれない。だからこそ、ハプニングでありイヴェントでありパフォーマンスでありライヴなのだ。地球システムは生き延び方を意識している。ポストミュージアムもそれに気づいた。偽の生命の条件の虜になって気づいたときにはすっかり手遅れということにならないように、固有の拘束を確認し維持しつづけるように、繰り返し繰り返しほどほどに、死にかける。完成させるのではなく完成を先送りにしつづける、止め時を知らないネットワークの不断な更新。ネットワークとつきあうためには不眠不休になれなくてはいけない。より頻繁に、より多くの情報量を。そのための差異の生産を。物質世界の規則にしたがう機械にはそれができない。エントロピーが増えてゆくにまかせるより他ない。しかし人間がいる。ネゲントロピーを供給できる生物がいる。機械ができることは機械に。物質的な仕事は機械にもできる。そんな仕事は人間がやることではない。人間はそういう仕事から解放され、自由になる。それで人間は何をするか。機械だけではいまだ抵抗することのできない熱死の欲動に立ち向かうための手助けである。人間は人間にしかできないことを見つけた。物質世界とは別の論理。知性でする仕事、クリエイティブな仕事。自分はクリエイティブな人間じゃないと思っているひとも、心配はいらない。適当に自由に遊んでいるだけでよい、それだけで価値が生まれるように、そういうふうにネットワークの方を設計しておくから。それで都合のよいただの差異産出装置になってしまったとしても、それに気づいたりそのことを疑問に思ったりしないように、というかむしろそうなることが幸せであるように、ネットワークの方を設計しておくから。
エントロピー増大の法則ないし熱力学第二法則にすっかり魅了された想像力は、多様な物事が截然と区別されている秩序ある状態は時間が経過するにつれて差異が均質化されてゆき、最終的には一つの区別のない全体へと同質化してゆくのであり、あらゆるシステムはこのようにできている、という論理に取り憑かれている。これの問題は科学的に正当かどうかではない。この法則に支配されている宇宙においてシステムが延命するためには、外部からの攪乱を歓待することによって絶えず差異を生み出し、均質化に抵抗しつづけなくてはならない。エントロピー増大に抵抗する負のエントロピーを適度に取り込みつづけなくてはならない。システムを開放して異質な外部を取り入れることで絶えず差異化しつづける。ずうずうしさと紙一重の開放性だ。閉じることからはじめなければすぐに配慮を忘れる。そんなエントロピーの物語、あるいは新しさの強迫観念。いつまでたってもそこから離れられないのは、わたしたちが精神的に閉じているだけでなく、物質的に開いてもいるからだろうか。技術が発達して機械による自動化が拡大することで物質的に豊かになっても、物質と精神が別の論理で働いているからこそ人間が精神的な仕事によって物質的な困難を支えることができてきたのだから、物質的な豊かさと精神的な豊かさが比例する保証など何もない。物質の世界と精神の世界が別々の原理で動いているというとき、それらは同一平面上で拮抗する関係にあるのか、それともそもそも異なる平面を構成しているのか。生命の論理や創造性を、ネゲントロピーに還元してしまってよいものかどうか。いまを持続させることと、別様になることとは、違う。生命の論理は両義的なのだ。開放系であり閉鎖系である。他律的であり自律的である。くっつきつつ離れている。そして、だからこそ戦略的なのだ。オープンやフラットやフリーといったかつての対抗的な理念はいまではすっかり支配的になっているけれども、しかしまさにそういう危うい両義性があったからこそ戦略的たりえた。ポストも2.0もそうであろう。
じらすことは必ずしも成就を先延ばしすることを目的にして行われるわけではないのだが、効率に目がない感性にはその美しさが分かりづらい。目的地へ最短最速で到達するか遠回りをして辿り着くかだけが問題だからだ。データを音の形式で聴くことと音を聴くこととは違うのだ。たとえば、いまではかつてこんな考え方があったことすら忘れられているかもしれないが、MP3でDJをすることが流行しはじめた頃、そんなものでDJをするなんてけしからんレコードでやるべしという意見もあって、そういう立場は素朴な懐古主義だなんだと馬鹿にされたものだ。実際いまになってみればMP3かレコードかなんてことはたいして気にしていないし聴き分けられることもないのだから、たしかに結局そんな考え方はあってもいいけど取るに足らない時代錯誤だったということなのかもしれない。それどころか、MP3をいちいち買ったり落としたりすることさえもはや時代遅れになりつつあるいまや、デジタルだのアナログだの言っていた過去のひとたちはたんに流行遅れだったのかもしれない。そういう面もあるかもしれない。しかし、デジタル化に難癖をつけていたひとたちは、そうせずにはいられないほどの何らかの違和感をたしかにそこにおぼえていたはずなのである。そしてその違和感をわたしたちはもうほとんど感じられなくなっている。わたしたち自身がネットワークになればなるほど、そんなことなど気にならなくなってゆくのだ。いまでは時代遅れな考え方として排除されるかもしれないような、アナログとデジタルの違いを聴き分けられる感性には、デジタルな均質化がいかにおそろしいかが分かっていた。レコードとMP3が交換可能であるという理念こそいっときの眩暈だったのだ。もちろんアナログとデジタルの違いはたんに一つの切り口にすぎず、たとえばCDやMP3のスキップ/サーチとカセットテープの早送り/巻き戻しの効率を比較してみるなら、レコードだって任意の位置に針を落とせばどこからでも再生できるし、溝を読んだり目印をつけて特定の再生位置を記憶しておいたりすれば、いつでも目的の音をいきなり再生することができるのだから、これはべつにいわゆるアナログとデジタルの違いではなくて、ランダムアクセスとシーケンシャルアクセスの違いだ、という場合もあろう。したがってまた、デジタル・データが実際に音質がよいわるいとかビジネスとしてどうとかこうとかいったことも、ここではどうでもよい。ここで問題にしているのは、それらの背後に根底にある文化であり、その原理なのだから。つまりコミュニケーションの情報理論ないしデジタル・コンピュータ技術、あるいは情報を物質世界の論理で道具化するためのきわめて優れた解決策。
最終的に目的地に到達するのか目的など忘れて逸脱するのかは大きな違いであり、したがってまた外部からの闖入の痕跡と反復からの跳躍の痕跡を区別することはとても重要なのだが、さしあたりその手前で迂遠さを悦楽すること自体にもまた意味がある。それは、同化しがちで包摂/排除してしまいがちなものたちを媒介する。自由と拘束のように、突きつめると反転してしまうものを媒介する作法、いわばメディア・アートである。媒介は、繋ぎ止めるとともに、一体化してしまうことを防ぎもする。それは、決定的な破局は望まない未練を孕んだ別離であり、したがって切断であるとともに接続でもあるような粘着性の薄膜である。そういうものが間に挟まっていることで、個体と全体は不思議な関係性をつくりだす。個体は全体の中に融解しないし、しかしかといって個体は全体との連環の中から孤立しない。結合すれば溶解する関係性を引き離し、分離すれば衝突する関係性を取り持つ。個体と全体は同一平面上で拮抗しあうものではないのである。閉じているとともに開いていることが、いまシステムにとって生命の条件なのである。だからもはや休むことなく作動しつづけることでしか維持することができないほどに突きつめられたシステムはじきに死んでしまう。ネットワークはわたしたちから睡眠を奪い去り、自らのものにした。ミュージアムはこんなに早く閉まるのに、ネットワークの爛々と輝く眼差しはどうしてその瞼の愛おしさに目もくれずにいられるのだろう。まるでそれを見つめるすべを忘れてしまったかのように。
原島大輔(東京大学大学院)