小特集 インタビュー ポスト・ミュージアム時代の近代美術館

ポスト・ミュージアム時代の近代美術館|三輪健仁(東京国立近代美術館 主任研究員)|聞き手:池野絢子、江口正登|記事構成:江口正登

パフォーマンスの収蔵/展示は可能か

── 「14の夕べ」から離れてもう少し一般的に、美術館におけるパフォーマンスということについておうかがいしたいと思います。最近はたとえば、MoMAでマリーナ・アブラモヴィッチの回顧展が行われたりしていて、歴史的な対象としてパフォーマンスを美術館が扱うという流れがあると思いますが、そういうものに対してどのようにお考えでしょうか?

三輪:アブラモヴィッチ展は、非常に良い展覧会だと思いました。彼女のパフォーマンスがもともと持っている性質にもよるのでしょうけれど、彼女はいま60代後半だと思いますが、その歳になってもパフォーマンスに強度がありました。1960-70年代のアーティストの回顧展で、しかも本人が出てくるとなると、なんというか、「ありがたいなあ(笑)」みたいな感じの受容になりがちじゃないですか。それはあまり面白くないと思うのですが、アブラモヴィッチは本人のパフォーマンスの強度が保たれているように感じました。
展示室のなかで、裸の男性や女性がパフォーマンスしている(これはもちろん1960-70年代の人ではなくていまのパフォーマーたちですが)のには、先ほど言った近代美術館という場が持っている条件という観点から、強いインパクトを感じました。MoMAはそれこそ本当に、歴史的な傑作が揃っている美術館で、下のフロアにはそういう作品がたくさん展示されているし、アブラモヴィッチ展を行った展示室にも別の会期ではそういうものが並びます。そういう場所に展覧会のサブタイトル「The Artist is Present」が象徴するように、生身の身体が展示されている。素朴な感想かもしれませんが、その状況のショッキングさは強く印象に残りました。パフォーマンス的なものを展覧会として扱う場合に、そのすべてが成功するとはもちろん思いませんが、アブラモヴィッチの展覧会には感銘を受けました。
「14の夕べ」を企画したときにも、もともと1970年前後の美術状況が出発点にありました。なので、当時から活動していた美術系のアーティストで、パフォーマンスをいまでもできる人を探したんだけれど、正直に言うと先述の強度という点を確保できるアーティストがなかなか見つからず、結局入れられなかったという経緯があります。それに較べると、なぜか音楽系はまだ大丈夫という感じがあって(笑)。だから、最終的には1960-70年代から活躍し続けているアーティストについては、一柳慧さん、小杉武久さん、あとは朗読で谷川俊太郎さんということになりました。本当は美術作家も入れたかったのですが、なんというか、肉体のプレゼンスで勝負する、みたいなパフォーマンスが多かったこともあって、そうするとやはり、本人が歳をとって身体的強度が落ちてくると、けっこう観るのが厳しいものになってしまう気がしました。そういう懸念は以前から持っていたので、なおさらアブラモヴィッチに驚いたというのはあるでしょうね。できちゃう人もいるんだなというか、あまりうまい言い方でないですが、人次第というところはあるのかなと。
他方、ドキュメント的な回顧はまた別の問題になります。まずひとつ思うのは、オリジナリティへの信奉が、美術館のなかではいまだに根強いということです。これだけオリジナリティの価値が相対化されてしまっているなかでも、美術は物質的なモノに依拠している、という点はいまだ変らない部分が大きい。そうするとやはり、オリジナルであるということに対する執着はものすごいわけで。たとえばパフォーマンスでなくとも、インスタレーション的な傾向を持った作品、日本で言うとたとえば「もの派」なり何なりであれば、再制作が可能だし、実際されているわけです。されているんだけれど、「でもそれって再制作でしょ」、「やっぱりオリジナルじゃなきゃね」みたいな感じは、たとえ再制作に本人が関わっていたとしても、どこかで残っています。パフォーマンスの場合は、この問題がより顕著です。当たり前ですが、1970年代に行われたパフォーマンスのオリジナルの状態を、物質的な意味で再現したり、保存したりすることは不可能なわけです。ですから、パフォーマンスを回顧的に扱う場合、再制作ではないですけれど、資料などを並べドキュメンテーション的に検証するというかたちをある程度までとらざるを得ないわけですが、個人的には、そこにとても悲観的というわけではありません。パフォーマンスを扱うひとつの方法としてそれはそれで大事なこと、美術館はそういう役割を持った場所でもあると思っていますので。つまりオリジナルがなくなっても、それがどんなものであったのかを、残ったさまざまな資料から再構築し、表象(re-presentation)することですね。でも、オリジナルの行為が行われたときの強度、一般的にパフォーマンスにおける最も重要とみなされるだろう質、まさに「The Artist is Present」みたいなものを体感させることはやはりなかなか難しい。
また展示と同じく、パフォーマンスを収蔵していくことには、絵画や彫刻を収集保存することとは決定的に異なる側面があるのだと思います。たとえばインストラクションやスコアみたいなものは、過去のパフォーマンスの事後的な記録であるとともに、次のパフォーマンスのための予期的なものでもあるから、それに基づいて本人ではないにしても新たにパフォーマンスを行うことができる。そうしたスコア的なものを収集保存していくのはありうると思うんですけれど、でもそのインストラクションやスコアに、絵画や彫刻におけるような意味での質を求めるのは少し違う気がしていています。現在、そういうものを額装して仰々しく展示することがしばしば行われていて、だからこそパフォーマンスを扱う展覧会が可能になっている部分もあるわけですが、それを展示すれば展覧会として刺激的なものになるかっていうと、そうでもない気はするんですよね。
いまの話を「14の夕べ」につなげると、この企画は、身体がそこに現前していることの強度みたいなものと、過去の出来事のアクチュアリティをすくい取る回顧的なもの、両者の折衷を試みようとしたものなんです。1960-70年代を強く意識しているので、確かに回顧的な側面を持ってはいるんですけれど、そこで、当時の人たちをもう一度同窓会的に集めて、やや強度の落ちたパフォーマンスを再現してもらうということにはあまり興味がなかった。じゃあそのなかで、どうやったら1960-70年代のアーティストが実践していたパフォーマンスにおけるアクチュアルな問題をいま提示できるのかと考えると、そこにあった問題を別の文脈であれ、強く意識しているアーティストだったり、あるいは、明確に意識していなくともいま非常に面白いことをやっている若いアーティストにあらためてそれを意識してもらう。そういう人たちを集めてくることによって、まったく同じものを再現するわけではなく、当時刺激的であった部分に近い質がこの場に生じないか、そういう可能性を考えて、「14の夕べ」のプログラムのラインナップを作ったところはあります。

── 作品そのものではなく、そのコンセプトや問題設定の方を継承して展示するという……。

三輪:そうですね。だから、たとえばこの企画は、タイトルからして明らかに1966年にニューヨークで行われた「9つの夕べ(9 Evenings: Theatre and Engineering)」を参照しているのですが、1960-70年代に詳しい方からは、名前をこれだけ近づけておいて、オマージュ的な部分も含め「9 Evenings」に対する検証なり何なりがまったくない、というような批判を受けたりもしました。もちろん、さっき言ったような資料的な側面から「9 Evenings」に含まれていた可能性を抽出することに重きを置くようなアプローチも取れたと思いますけれど、「14の夕べ」においては、そういう意味での参照項ではなかったんです。

出来事としての展覧会をどう残すか

三輪:岡﨑乾二郎さんと以前話をしていたときに、パフォーマンスの企画をやるのであれば、究極的にはパフォーマンスをどう美術館に収蔵できるのかというところまで考えるべきだ、ということを言われました。たとえば、生身のアーティストを収蔵することは可能なのかとか(笑)。確かに、絵画や彫刻だって突き詰めて考えれば物質だから朽ち果てるものです。美術館におけるコレクションの考え方の基本に、とりあえず100年先まで作品を保存しましょう、というのがあります。その後どうなるかわからないけれど、100年間はがんばって保存しましょう、というぐらいのスパンです。そうすると、100歳まで生きる人はあまりいないかもしれないけれど、80歳ぐらいまでは元気に生きる人もいまは多い。だから、20歳のアーティストを「収蔵」してしまえば、60年間は保存できるわけです(笑)。実際のところは物理的に難しいでしょうけれど、あえてそういう振り切れたところまで考えてみることは、パフォーマンスを美術館が扱うという問題を考えるときにけっこう重要なんじゃないか。たとえば、収蔵庫に24時間いなければいけないわけではなくて、週に1日だけいるという収蔵形態なら可能なんじゃないかとか妄想してみたり。だから、インストラクションやスコア、それに記録写真を保存することが、パフォーマンスを収蔵する唯一の手段だとするとあまり面白くなくて、いま言ったようなことはちょっと振り切れすぎかもしれないけれど、別の形態はあるんじゃないかなと、半ば冗談、半ば本気で考えます。
それから、この種のことはパフォーマンスに限ったことではなくて、もうひとつ、美術館で開催されている展覧会はそもそも基本的にテンポラリーなものです。そこで展示される絵画や彫刻は物質としてあるけれど、展覧会自体は出来事だから、会期が終わると消えてしまう。そしてそこには人員の不足などさまざまな理由があると思いますけれど、日本では、自館が企画・開催した展覧会でさえ、そのドキュメンテーションをなかなか満足にできていないという状況がある。美術館はイベント稼業的な性格もあるので、終わったものを振り返ってる暇はないというところもあって、もちろんカタログは作りますけれど、その展覧会がどういうものだったのか、きちんと保管あるいは収蔵されていっていないという感じは強く持っています。
だから、パフォーマンスを扱う展覧会に限らず、おしなべて展覧会というもの、つまり出来事をどうやって記録していくのかがとても重要な問題だと思います。作品を物質的に収蔵・保管していくのと同じくらい大事なことなんじゃないかと。確かに断片的な素材として、残っているものは残っているわけですが、それがどうもうまく活用されていない。これこれの展覧会はこういうアクチュアルな問題をまだ含んでるんですよ、ということを、さまざまな人が発見できるようにアクセス可能にしておく、そういうものになっていないのは残念だと思っています。では、単純に既存のデータベース的な枠に当てはめれば良いのかというとちょっと違う。展覧会ってやはり特殊な出来事なので、それに触れるためのインターフェースに、かなり工夫が必要だと思っています。個人的にはいま、展覧会ひとつ作るよりもむしろそちらに興味がいっているようなところもあります。
いまの話につながるかもしれませんが、去年のヴェネツィアでの「態度が形になるとき(Live in Your Head: When Attitudes Become Form)」展の再現展示のように、過去の伝説的な展覧会を再び展覧会として扱うことが最近一種の流行りになっています。この前ニューヨークに行ってジューイッシュ・ミュージアムで「プライマリー・ストラクチャーズ(Primary Structures: Younger American and British Sculptors)」展を参照した「アザー・プライマリー・ストラクチャーズ(Other Primary Structures)」展という展覧会を観たのですが、これは、「態度が形になるとき」展の再現展示のケースとはまったく違うものでした。もともとの「プライマリー・ストラクチャーズ」展は、出品作家がイギリスとアメリカのアーティストだけというコンセプトでしたけれど、「アザー・プライマリー・ストラクチャーズ」展の方は、同じようなことを同じような時期にやってるアーティストを、いまのグローバルな視点から見てすくい上げてようというもので……ちょっと拍子抜けの感もあったのですが。たとえば南米のアーティストとか、確かに似ていることをやっている人はいくらでもいて、そういったアーティストの作品を展示する。で、壁面には、巨大に引き伸ばされたオリジナルの「プライマリー・ストラクチャーズ」展の記録写真が展示されているという、まあ良くも悪くも――というか、悪くもですかね(笑)――ポリティカルな展覧会に見えました。
あまり好感を持てなかったのは、たとえば2012年にロサンゼルスの現代美術館で、ランドアートの展覧会「Ends of the Earth: Land Art to 1974」があって、そこにはグループ〈位〉の《穴》とか、それランドアートかなって思うものまで含まれていて、「アザー・プライマリー・ストラクチャーズ」展を見た時に、対象へのアプローチに似ているところがあるなと思ったんです。「プライマリー・ストラクチャー」という文脈のなかに、仮設的、仮説的にではあれ、「もの派」なんかも入れ込んでしまう。そういう手続きにはあまり賛同できないなと思ったんですけれど、他方で、ドキュメンテーション的な扱いのみではなく、いま現在の視点から展覧会として成立させるという意識は、成功したかどうかは別として、一定の共感を持てるようにも思いました。
ともあれ、展覧会という出来事を再びどう扱うかということは、最近多くの人から関心を持たれていて、それは過去をきちんと知った上で、自らの行為を再認識しようという意識が強くなっていることの現われにも感じていて、悪くないと思います。去年、森美術館で橋本聡さんたちのグループ「基礎芸術」が、「人間と物質」展を再展示する計画について話していましたよね。作品ではなく出来事をどうやって扱うかということは、いままでもやられてきたのかもしれないけれど、それに対して美術館として何ができるかと考えると、まだポジティヴに可能性があるという気がしています。

── パフォーマンスの記録や保存について、映像に残すというのはひとつ方法としてあると思うのですが、それについてはどのようにお考えでしょうか? そうやって残された映像は、たとえばスコアみたいなものと同じ扱いになるのか、それとも、より作品に近いものとして捉えられるのか、どうでしょうか。

三輪:もちろん細かく言うとケースバイケースになると思うんですけれど、基本的な考え方としては「記録と作品」、あるいは「記録と表現」と言い換えられるのかもしれませんが、両者はそんなに簡単に分けられないだろうと思っています。たとえば1960-70年代のヴィデオアートってそういうものがすごく多いわけです。最も手近にある撮影対象って自分だから、多くのアーティストが自ら行うパフォーマンスを撮影しているのだけれど、それはパフォーマンスという作品を記録したのか、あるいは映像作品として表現したのか、そう簡単には分けられない。映像を撮るときに、本人が関わっているかいないかは確かに大きくて、それはひとつの目安としてはあるけれど、前提としては私はあまり両者を区別しないように意識しています。
1960-70年代のヴィデオアートに批判的な人が、「単なる記録でしょ」という言い方をすることがあります。作品、表現ではなくて単なる記録だと。その言い方はある意味面白い。つまり表現と記録だと表現が上にあって、記録は二次的な下位のレベルにあるという考え方。そうすると、表現としては保存できないので、二次的ではあるけれど記録されたものの方――スコアみたいなものもそうなのかもしれませんが――を保存なり収蔵なりするのって、ある種、仕方がないからやっているという理解につながってしまうことになると思うんですけれど、私はあまりそこに差を設けなくて良いんじゃないかと思っています。もしかしたら、単なる記録です、と本人自身が言って撮ったものでさえ、表現として観るべき質を備えているということもありうるわけですから。その意味では、表現と記録という二項対立は、偽の問題であるというか。だからとりあえず映像を残す、ということに関しては、質は留保するにしても、私はポジティヴです。
こういう考えもあって、「14の夕べ」の場合もすべてのプログラムについて記録映像を残しています。それを用いて何かするあてがいまあるわけではないのだけれど、将来的に考えればやはり意味はあるだろうと。スティル写真もそうで、そこは予算面からも、最初からきちんと準備していました。どう使われていくのかはまだ分からないし、パフォーマンスそのものと等価だと無邪気に思っているわけでもないですが、そういった記録に存在意義があるだろうと信じたいところもあります。記録といわれるものに関しては、基本的にそういうスタンスです。

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