小特集 インタビュー 「現代美術、保存修復の現在——ミュージアムの内外から

インタビュー「現代美術、保存修復の現在——ミュージアムの内外から|アントニオ・ラーヴァ(修復家・イタリア国際修復機関副会長・ヴェナリア国立修復研究所教授)|聞き手・翻訳:池野絢子、田口かおり|記事構成:池野絢子

—— 本日はお時間を割いていただきありがとうございます。今回は『REPRE』の小特集で、ポストメディウム時代のミュージアムはどのような状況と直面しているのか、というテーマを扱うことになっています。
インスタレーションやメディア・アートといった新しいタイプの作品がミュージアムの空間に置かれる際には、展示だけではなく、保存の観点からも様々な問題が生じていると思います。そこで今日は、現代美術の保存修復という分野で、長年にわたって第一線で活躍されているラーヴァ先生にお話をうかがいたいと思います。
今回ラーヴァ先生は、昨日京都大学で行われた国際シンポジウムのために来日されたわけですが(※1)、明後日は東京国立近代美術館で専門家の方々との懇談会にも出席される予定だそうですね。先日はちょうど国立国際美術館でも現代美術のコレクションをめぐるシンポジウム(※2)が開催されたところで、日本でも現代美術の保存修復への関心は高まっていると思いますが、新しい形態の芸術に特有の問題にはどのようなものがあるのでしょうか。

ラーヴァ:新しい芸術、とくにタイム・ベースド・メディアと呼ばれる映像作品の保存については、テクスト(本インタビュー後に掲載)を用意しましたのでそちらを参照していただきたいと思いますが、この場ではとくに、私自身がそうした芸術に関わるにいたった経緯や、どのようなアプローチをとるかについてお話しします。
私は実践から入ってここまでやってきた修復士です。ですから、現代美術の修復について特別な勉強をしたわけではありませんし、それに、私が修復を始めたときはまだ、現代美術の修復という分野自体が存在しませんでした。すべては、そうした実地で得た知識や、それに携わる人との出会いから始まったといえます。タイム・ベースド・メディアについても、私はウーディネのアレッサンドロ・ボルディーナという人に出会い、多くのことを教えてもらいました。彼はこの分野の修復に幅広く携わっていて、現在はとくにヴィデオのフィルムの情報をデジタル化する作業を行っています。それは、正確なプロトコルに基づいて行われないと、作品自体が失われてしまうデリケートな仕事です。
美術館のヴィデオ・アートの部門は、いま、危機を抱えています。作品の発見が遅すぎたため、フィルムがもはや再生できない状態で、失われてしまったものも存在します。他方で、サルヴェージが可能だったケースもあります。たとえばトリノ市立近現代美術館〔Galleria civica d’arte moderna e contemporanea Torino〕(以下GAMと略称)のヴィデオ・アーカイヴでは、すべての作品がデジタル化されました。対して、ヴェネツィア・ビエンナーレの国立アーカイヴの資料は、半分しかデジタル化されていません。私がそこでデジタル化の作業を開始したとき、全体の半分の資料はとても悲惨な状態で発見されたため、残念ながら救済できなかったのです。これはヴェネツィアの気候のせいでもあります。ヴェネツィアは湿度が高いので、フィルムの保存にはよくないのです。こうした気候が、フィルムの状態を悪化させたと言えるでしょう。
それから、プライベートなアーカイヴがありますが、たとえばエミリア・ロマーニャのキュレーター、ローラ・ボノーラのヴィデオ・アートのコレクションは、まだ資金の融資を待っている状態です。けれど、ようやく資金が手に入ったときには、もう作品がなにも残っていない可能性があります。それは大変残念なことです。イタリアから遠く離れたところでこう言うのもなんですが、私はヴィデオ・アートを保護するための機関をいまこそ設立すべきだと提言したい。保存せねばならない重要な資料がまだたくさんあるのです。1950、60年代に撮影されたそれらの作品が、どれほどの物語を、潜在性を秘めているのか、想像してみてください。失うのは大変残念なことです。けれど、実行するための資金がないのです。フィルムのサルヴェージは、経済的な作業ではありませんから。けれど、ヴィデオ・アートは、素材としては他の芸術と同様なので、他の芸術と同様に、作品を完全に保存する方法が考えられるべきだと思います。
それとは別に、保存がきわめて難しい芸術もあります。たとえば、インターネットを用いたネット・アートがそうです。インターネットというのは、その定義からして流動的なものですから、そうした芸術は社会学者のジグムント・バウマンのいう「液状化」の一部をなすものと言えるでしょう。ネット・アートは現在性に依拠しており常に変化するので、後世に伝えること、アーカイヴ化することがきわめて困難です。インターネットを通じて享受したり、売ったり、買ったりすることはできますが、それをネットから分離してしまったら、もう同じものではありません。それはそもそも、あらゆるものと交換可能なものとして生まれてくるのですから。
それからもう一つ保存が難しいものに、音楽、音があります。音それ自体が別のものと結びついて、芸術となる場合があります。たとえばジャン・ティンゲリーの自己破壊する作品は、動き、音を立てていましたが、音はしばしば、知覚にとって付属的なものとして忘れられ、なおざりにされてきました。マックス・ニューハウスの作品もしばしば音を伴っていますがやはり同じ状況です。
さらに、触覚的知覚や、匂いなどに訴える、もう一つのタイプの芸術があります。そうした芸術は勢いを失ったあとで、再発見されることがあります。しかし、絵画、彫刻、インスタレーションといった伝統的な美術の枠組みがいまだに強いために、そうした試みは展示空間には向かない作品と考えられています。このために、エフェメラルで非物質的なものはすべて、ますます顧みられず、古びていきやすくなってしまうのです。

ヴィデオ・アートの享受

ラーヴァ:ある人はヴィデオ・アートを定義して「美術館が電気のスイッチを切れば、消えてしまうような芸術」と定義しています。つまり、美術館が「電気を消せ」とさえ言えば、作品は視界から消えてしまうわけです。作品は電気があって初めて起動するのですから。作品の機能は、見られる瞬間にのみ結びついています。美術館が閉まれば、つまり美術館という電気が途絶えると、もはやなにもないわけです。

—— つまり、美術館の方が作品を生かしているということですね。美術館の環境こそが、芸術作品の存在を規定していると。

ラーヴァ:美術館もそうですが、画廊でもそうですし、プライベート・コレクションでもそうです。こうした状況は、かなり常態化しつつあります。小さな作品もあれば、部屋単位の大きな作品もありますし、動画ではなく静止画かもしれない。このように作品様態は様々ですが、映写される作品には共通の状況です。作品というよりも、それはむしろ上演ですから。
このことに関連してお話しておきたいのは、ヴィデオ・アートを愛好する人々には、伝統的な方法で映写の神秘を経験したがる傾向があるということです。つまり、閉じた空間、暗くするための天幕、音を立ててフィルムを回す映写機……といったものが重要なのです。デジタル化によってこうした映写機は消えてしまいましたが、芸術家のなかには、映写機の音を録音して、後世に残すよう強く求める人もいます。映像を見ているときに、無菌的な沈黙が生まれないようにするためです。テクノロジーは凄まじい勢いで発展しましたが、芸術家たちはそれ以前のものに愛着を持っていることがあるのです。

[脚注]

※1 科研基盤研究B(代表者岡田温司)による招聘。京都大学で行われた国際シンポジウム「現代美術の保存と修復——何を、いかに、どこまで」については、本号のトピックスの報告文を参照されたい。

※2 国際シンポジウム「現代美術をコレクションするとは?」(2014年3月1日)。その内容は、橋本梓氏による記事に詳しく紹介されている。

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