新刊紹介 | 単著 | 『イタリアン・セオリー(中公叢書)』 |
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岡田温司(著)
『イタリアン・セオリー(中公叢書)』
中央公論新社、2014年2月
随分と欲張りなイタリア・ツアーがあったものだ。昨今の思想界を賑わす生政治をめぐる議論に始まり、混沌の街ナポリで免疫化とは別の共同体の方向性を見たのち、使途パウロの残したカテーコン潜む黙示録的な世界へ誘われ、さらには古代ローマの変身の神ウェルトゥムヌスに新しい翻訳論の可能性を示されたと思えば、一転、清貧を唱えた聖フランチェスコの亡霊とあいまみえ、モダニズム建築のなかで天使や堕天使と出会い、最後は現代のイタリア人から意外な手紙を受け取る。しかも、さまざまな時代を行き来するこのツアーは、フランスやドイツにも足を伸ばすのだ。その道中ではドゥルーズやベンヤミン、シュミットらと出くわすのだが、とりわけ何度も顔を合わせることとなるのはフーコーとデリダである。
こうした現代思想のスターたちとの対話(とくにデリダとアガンベンとのそれは人目を引くものだろう)もイタリアの思想の形成に不可欠だが、とはいえ、古代ローマ世界や神学的な伝統がそこに息づいていることを見過ごしてはならない。古代、キリスト教、現代という三つの時代の混在こそ、ひとを惹きつけてやまぬ彼の地の魅力なのである。さまざまな哲学や芸術がそうであったように、イタリアの思想は時代錯誤的なものから新たな活力を引き出すのだ。このツアーを通して知られるのはイタリアン・セオリーの原動力、アナクロニズムゆえのアクチュアリティである。それゆえ、たとえイタリアと無関係の旅行者であっても、本書のうちにいくつものアイデアを見つけることができるだろう。「生政治」の思想の徹底・深化、神学の「世俗化」の主題化、「否定の思考」の実践、これらの三つ巴から指し示されるのはアガンベンが辿った道行きだけでなく、エスポジトやカッチャーリらが辿るそれとはまた別の途、そして私たち自身のさらなる旅路なのである。(宇佐美達朗)