新刊紹介 | 単著 | 『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』 |
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東浩紀(著)
『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』
東京創元社、2013年12月
「世界」との面倒な交渉をすべて括弧に入れ、親密圏と「セカイ」の破局とを短絡する「セカイ系」の想像力の系譜。東が取り上げるのは、この系譜の先駆的存在であると同時に、それぞれ独自の形で「セカイ」の閉域からの突破口を示しているとされる新井素子、法月綸太郎、押井守そして小松左京という四人の作家だ。問題設定は明瞭である。「世界」から切り離された「セカイ」において、文学はいかにして成立しうるのか。そして東の評論が示そうとしていくのは、「セカイ」に閉じ込められた地点から出発して、そこから抜け出そうとしていく運動のなかに見いだされる一つの文学類型である。おそらくは、「セカイ」を描く「セカイ系小説」とは区別されるべき、「セカイ系文学」という一つの概念が提出されるべきなのだろう。
東の評論スタイルが容易に連想させるのは、文学的エクリチュールのなかに「他者l’autre」との接触の痕跡を執拗に読み解いていったモーリス・ブランショの文学評論である。しかしここではさらに系譜をさかのぼって、マルティン・ハイデガーの『存在と時間』を召喚してみたい。「世界内存在」から出発したハイデガーに対し、東は「セカイ内存在」としてのセカイ系文学から出発する。そしてそこで探求されるのは、「セカイ」をそもそも在らしめる存在の根拠である。
ただしここで呼び出されたハイデガーという名は、ある不吉な連想をともなうものでもある。ある時期のハイデガーが自身の存在論を「血と大地」という実体に重ね合わせていったのをやや思い起こさせる身振りで、東が「セカイ」からの脱出の根拠として見いだしていくのは、家族、恋愛、生殖といった身も蓋もない現実である。東による論証の鮮やかな手さばきに感嘆しつつも、セカイ系文学の存在論を支える一見するとナイーブな根拠に、一抹の胸騒ぎを覚えるのは致し方ないだろう。
しかし東は、最後の最後に一つの仕掛けを用意していた。生殖というテーマを扱う小松左京をめぐる評論の最終部で、生殖によって産み出される未来の可能性という問題系を、東はきわめてさりげなく組み替える。未来を産出する根拠となるのは、身体的な生殖(だけ)ではなく、亡霊的な分身の産出であると示唆されるのだ。東自身の表現を借りるならば、「産む女」ではなく「憑く女」こそが重要であるとされる。かくして、ハイデガー的な存在論(ontology)は、デリダのいうところの亡霊論(hauntlogy)へと組み替えられる。かくして、読者は本書を改めてはじめから、今度は亡霊論のパラダイムで読み直すことを余儀なくされる。それでもまだあの胸騒ぎを覚えるかどうか、これは各自で確認して欲しい。(谷島貫太)