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ヴィクトル・I・ストイキツァ氏講演会

2009年2月28日(土)、水天宮にもほど近い隅田川畔の日本橋公会堂を会場に、美術史家でフリブール大学教授のヴィクトル・I・ストイキツァ氏による講演会が開催された(主催は京都造形芸術大学比較芸術学研究センター)。ストイキツァ氏は、前日にも東京大学駒場キャンパスで「カラヴァッジョの天使たち」をめぐる講演を終えられたばかりである。http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2009/03/report-victor-i-stoichita-les/で、荒川徹氏によるその詳細なレポートを読むことができるが、この夜は一転して、マネとドガの自画像がとりあげられることになった。

講演のタイトルは「集中そして/あるいは蒸発——肖像・自画像・〈近代生活〉」である。すでにあきらかなように、ボードレールがひそかな参照項として導入されている。わざわざ括弧でくくられた〈近代生活〉はいいとして、「集中」と「蒸発」もまた、アフォリズム集『赤裸の心』(1864)に由来するものだ——De la vaporisation et de la centralisation du Moi. Tout est là。実際、この日の講演の「すべてはそこにある」とすらいうことができる。絵画の「近代性」とよばれる特徴を、たとえば「マネタイプ」と「ドガタイプ」というような仕方で一般的に「モデル化」することができるのかどうかは、さしあたり判断を保留するのがかえって賢明だろう(この問題をめぐってはフロアーからも質問があった)。しかし、自画像において制作主体の「自我」が「蒸発」するのがドガであり、「集中」(というより文字どおり中心化?)するのがマネであるというように図式化したとしても、重要な細部の数々をことごとくとりこぼしつつ、ひとまずどうにかそう大きな誤解が発生することはあるまい。

もちろん、実際のストイキツァ氏の論証は、あくまでも美術史家としての精緻をきわめ、またその推論はほとんど探偵小説を彷彿とさせるほどスリリングなものであった。メタ言語への安易な依存——いまやそれはベタな生活言語に反転しながら大学のいたるところで繁殖しているのだが——は厳格に退けられる。それどころか、キャンバスの画面それ自体だけではなく、その具体的な所有形態や展示形態までもが有意な「手がかり」としてとりあつかわれ(たとえばマネの2つの自画像とハムレットの肖像画の関係)、また画面が問題にされるときも図像だけではなく署名の位置までもが詳細に検討されることになるだろう(たとえばマネの署名はイメージの中央にあり、ドガの署名はイメージの下の縁(ふち)にある、など)。

いま、その骨子だけをとりだしてみるなら、つまりマネの自画像は制作者の肖像であると同時に制作行為の反復でもあるというのがストイキツァ氏の主張であるように思われる。そしてこのとき、画家は分裂した存在、あるいはボードレールのいう「純粋芸術」(主体/客体および外部/内部の同時存在)を可能にする「二重の存在」と化し、その自画像はむしろ(イメージの)内部と外部のコミュニケーション装置として機能しはじめるのだ、と。ドガの自画像は逆に、制作者を(さらには鑑賞者までをも)窃視者として、すなわち観察されることのない観察者として、作品をその外部から見る視線として位置づけるとストイキツァ氏はいう。しかしわれわれとしては、それをたとえば古典主義的な慎ましい中立性と混同しないように注意するべきだろう。ドガは〈近代生活〉の画家であり、その「不在」は絵画の「近代性」を前提にしている。だとすれば、それは「蒸発」であると同時に「集中(=中心化)」(あるいはそれこそ不在による現前?)であってもよいわけであり、ならばマネの「集中(=中心化)」も、それが「分裂」である限りにおいて、「蒸発」の要素をわずかながら含みもっていると考えてはいけないだろうか。こうして、たしかに「すべてはそこにある」。しかし、それでもなお、まだなにかがあるのではないかという創造的な探究心を聴衆にかきたててやまない「ヒューリスティック」な講演——ストイキツァ氏の著作と同じように——であった。(REPRE編集部)

(2009年2月28日 日本橋公会堂2階ホール)