第9回大会報告 パネル2

パネル2:シュルレアリスムのあるところ──運動の境界線をめぐって|報告:利根川由奈

2014年7月6日(日) 10:00-12:00
東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム2

パネル2:シュルレアリスムのあるところ──運動の境界線をめぐって

チェコスロヴァキア・シュルレアリスムにおける日常表象の政治性
河上春香(大阪市立大学)

マン・レイ《天文台の時刻に──恋人たち》に関する一考察──シュルレアリスムとモードにおける唇のイメージ
小山祐美子(一橋大学)

フィギュラシオン・ナラティヴはシュルレアリスムとどのように接しているのか
中田健太郎(日本大学)

【コメンテーター】木水千里(成城大学)
【司会】海老根剛(大阪市立大学)

シュルレアリスムとは、いつ、どこで、いかようにしてあったのか。一般的に言えば、シュルレアリスムは1924年にアンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』によって産声をあげ、パリを中心に世界へ伝播し、その後第二次世界大戦を以て、あるいは「法王」ブルトンの死(1968年)を以て終焉を迎えたと見なされる前衛芸術運動である。この運動は20世紀ヨーロッパ美術をはじめ、戦後アメリカ美術にも大きな影響を与えたとされる一方で、現代においては、20世紀アヴァンギャルドの一部として歴史化されたようにも見える。しかし、今回のパネルはシュルレアリスムの地理的(河上春香氏)、ジャンル的(小山裕美子氏)、時間的(中田健太郎氏)周縁を問い直すことによって、シュルレアリスムの輪郭、そしてアクチュアリティを浮き彫りにしようとする試みであった。

河上氏の発表は、1930年代のチェコスロヴァキア・シュルレアリスムの運動を包括的に概観し、運動における「芸術実践」、「生活実践」、「政治的行動」の三者がいかに連関しているかを主題とするものだった。チェコのシュルレアリスムは、1933年に作家のヴィーチェスラフ・ネズヴァルが「革命に奉仕するシュルレアリスム」誌に声明を発表したことを契機として、1934年に首都・プラハに左翼的前衛芸術家集団のデヴィエトシルを母体としたグループが成立したことによって始まったという。河上氏の論によれば、彼らの活動の基盤として、芸術を用いて都市生活の問題、またマルクス主義的イデオロギーを提起する目的があった点でパリのグループとの類似が見られるという。しかし、芸術、生活、イデオロギーの三者の相関関係の現れ方については、グループ間で微妙な差異があった。たとえばグループ結成当初からのメンバーであるインジフ・シュティルスキーの写真や絵画は、都市生活とイデオロギーを芸術作品の中で接合させようとした試みだったのに対し、カレル・タイゲの絵画詩や論文には、芸術とイデオロギーを都市生活において結びつけようとした痕跡が見られるという。個人的に本発表の白眉だと感じた点は、プラハ・シュルレアリスムの先導的メンバーだったタイゲが、ソヴィエトの社会主義リアリズムとシュルレアリスムを理論的に接続させていたとの見解である。両者のイデオロギーは一見対極にあるように見える。しかし、シュルレアリスムは芸術と現実を交差させることによって両者の変革を目指した試みだったことを考えれば、ソヴィエトの圧力によってその活動や理論を変容させる必要に迫られたプラハのグループの活動は、彼らの抱える地理的問題をシュルレアリスムの手法によって乗り越えようと試みた点に特徴があると言えるだろう。シュルレアリスムの地理的周縁として見落とされしまいがちなプラハのグループの思想や活動の内実に焦点を当てることによって、本発表はシュルレアリスムの射程の一つを映し出すもののように思われた。

続く小山氏は、マン・レイの代表作である《天文台の時刻に──恋人たち》(1932-34年、以下《恋人たち》とする)の制作背景と1930年代アメリカにおける展示状況の検証を通じて、マン・レイ作品におけるシュルレアリスム美術と広告という二つの側面について論じた。《恋人たち》は、画面上部に配された女性のものと思われる巨大な唇が鑑賞者の目を引く作品である。シュルレアリスム美術の観点からは、このような蠱惑的な唇や、断片化された女性の身体が頻出するために、マン・レイの作品は男性中心主義に依っているとの解釈がなされてきた。しかし、アメリカの女性実業家であるヘレナ・ルビンスタインが《恋人たち》を自社のエステサロンに展示したり、女性向けファッション誌『ハーパース・バザー』にこの作品が掲載されたりしたことによって、《恋人たち》は女性の唇への欲望を喚起したという。(ヘレナは化粧品開発と販売を主に行っていたが、その中でも彼女の会社の口紅は最高級品として若い女性の羨望の的だった。)小山氏は、1930年代アメリカという女性の社会進出が進んでいた時代的・地理的背景を考慮すれば、この作品の受容の在り方がシュルレアリスム美術と広告の間で真逆のベクトルに変化したことも理解できると指摘した。加えて、この作品は広告用に制作されたのではなく、マン・レイの個人的経験に基づいた作品であることを提示した上で、《恋人たち》の受容の在り方が作者本人の意図から離れたことに言及した。よって、《恋人たち》の受容の検討によって小山氏は、作品をどの文脈に置くのか、によってその作品の持つ意味が変化するという美術作品の持つ解釈可能性についての普遍的問題を示したと同時に、シュルレアリスム美術がその創始の段階から内包してきたジャンルの問題にも踏み込んだと言える。なぜならマックス・エルンストは、雑誌広告を見てコラージュの着想を得たと言われるように、コラージュ、あるいはデペイズマンを用いたシュルレアリスム美術は広告と不可分の関係にあったと考えられるためである。したがって小山氏は、シュルレアリスム美術に内包されたジャンル横断的側面(=解釈可能性)を提示することによって、現代美術にも通底する問題をシュルレアリスムが先取りしていたことを示したと言えるだろう。

中田氏による最後の発表は、フランスのフィギュラシオン・ナラティヴとシュルレアリスムの接点を、形象としての造形言語の重要性を考察することを通して見出そうと試みるものであった。フィギュラシオン・ナラティヴとは、1964年の「日常の神話学」展(パリ)によって現れた芸術の一潮流である。このグループは画家や批評家によって構成されており、その中にはシュルレアリスムに関わっていた画家のエルヴェ・テレマック、モノリ、批評家のアラン・ジュフロワなども名を連ねていた。このグループの絵画の特徴として挙げられるのは、バンド・デシネ的に表現された人物、明るい色彩、そして事物の具象的形象である。グループのスポークスマンであったジェラール・ガシオ=タラボは、グループの主題として物語性を重要視し、それを担保するものとして具象的形象を位置付けたが、一方でジュフロワは彼の主張する物語性に反発し、具象的形象を用いて政治的メッセージを描いた作品を評価した。両者の立場の違いが明らかにするのは、このグループが多様な価値観を持つ芸術家・批評家の集まりであったにもかかわらず、その中心的主題として具象的形象があったこと、また、芸術的実践を19世紀以前の美術や同時代のイデオロギーと接続させようとした試みが、図らずもシュルレアリスムの主題と共通している点であろう。フィギュラシオン・ナラティヴはその造形的特徴から「フランス版ポップ・アート」とも呼ばれるが、中田氏はフィギュラシオン・ナラティヴとはコンセプチュアルではない具象的なポップであり、その根底には具象画に対する意識があるとの見解を示して、このグループの本質を具象的形象に見出した。最終的に中田氏は、フィギュラシオン・ナラティヴにおける具象的形象を、ブルトンら第一世代のシュルレアリストによる「神話」を語るための造形言語の延長線上に見出した。ブルトンは二度の世界大戦によって大きく揺り動かされた世界状況において新たな「神話」の構築を求め、「神話」を物語るための要素として具象的形象を要請した。ブルトンによる造形言語としての具象的形象の重要視は、夢や無意識のトロンプルイユとしてのオートマティスムを希求していた当初のブルトンの言説からかけ離れているようにも見えるが、世界大戦による混乱と荒廃という時代背景の中でシュルレアリスムが変容する際には不可欠の要素だったとも言える。発表を聞く中で、一見明確な接点を持たないかに思われたフィギュラシオン・ナラティヴとシュルレアリスムは、時代の隔たりを超えて具象的形象という主題を共有していたことを理解することができた。フィギュラシオン・ナラティヴはその始まりの地点を「日常の神話学」に定めた点で、シュルレアリスムの晩年における「神話」との接続を意識していたようにも思われた。

以上の発表を受けてコメンテーターの木水千里氏は、美術史における「モダニズム」という大局的観点から三者の発表の意義を考察した。河上氏の発表については、新しさの追求を目指したフランスの「モダニズム」を引き合いに出し、ロシアの構成主義レアリスムやチェコの動きもこの流れを受け継ぐものであるとの視点を提示した。一方、芸術の自律性を重んじたグリーンバーグの「モダニズム」では、具象的シュルレアリスム美術は「反モダニズム」として排除されたため、アメリカに覇権の移行した戦後の美術史においてシュルレアリスムは異端とみなされることになった。加えてグリーンバーグは商業広告をキッチュと切り捨てている。しかし木水氏は、『ハーパース・バザー』誌でマン・レイは「シュルレアリスム芸術家」との肩書を付されていたことからシュルレアリスムのキッチュ化(=商業広告との一体化)が行われている点を挙げ、シュルレアリスム美術と広告におけるジャンルの問題を前景化させた小山氏の発表は、グリーンバーグの「モダニズム」と同じ「美術とは何か」という問いを共有していると指摘した。中田氏に関しては、グリーンバーグの思想を咀嚼しつつ部分的に受け継いだロザリンド・クラウスと中田氏の立場の差異を示すことによって、中田氏の発表はグリーンバーグのシュルレアリスム批判を問い直すものであるとの見解を示した。というのも、クラウスはポップ・アートとシュルレアリスムを接続したものとして理解していたのに対し、中田氏は、ポップ・アートと(シュルレアリスムの延長線上にあるとされる)フィギュラシオン・ナラティヴの差別化を行ったためである。また、フィギュラシオン・ナラティヴにおける具象的形象は、イメージを「見る」ことと言葉を「読む」ことの類縁性を示したとして、この視点からシュルレアリスムを改めて概観することによって、グリーンバーグ的「モダニズム」の議論からこぼれ落ちた、しかし20世紀美術史を語る際に重要な問いをシュルレアリスムが内包していたのではないか、と結論づけた。

3つの観点からシュルレアリスムの周縁を問い直すという本パネルの試みは、「モダニズム」という20世紀美術を巡る中心的言説では語られてこなかったシュルレアリスム美術が、現代にも繋がる問題を含んでいた可能性を提示した。この点において本パネルは、シュルレアリスム美術が持つさまざまな位相の現代性を明らかにしたと言えるだろう。

利根川由奈(日本学術振興会/京都大学)

【パネル概要】

何がシュルレアリスムであり、何がそうではないのか。運動の境界線をめぐるこの問いは、根本的なものでありながら、けして自明なものとは言えない。モーリス・ブランショの指摘していたとおり、シュルレアリスムは現代の空気のなかに深く浸透し、そのイメージはどこまでも拡散していくように感じられる。 シュルレアリスム美術をめぐるロザリンド・クラウス以降の批評的言説も、その境界線を確定させるには至っておらず、むしろこの運動が何ではないかを否定辞で語ることによって進展してきたところがあったのではないか。シュルレアリスムとはモダニズムではなくまた現代美術でもない何かであり、そのために歴史上の屈折点としての意味をもちえた、といったように。

とはいえ近年の実証研究の進展は、境界線について肯定的に考える手立てをわれわれに与えてくれているのではないだろうか。本パネルは、そのような境界線のいくつかを提起し、たがいにすりあわせてみることによって、運動のありかについて具体的に考察することを目的とする。フランスの運動から離れて独自の展開をしめした各国の「シュルレアリスム」において、あるいは広告的利用によって現代生活に浸透し遍在して見える「シュルレアリスム」のなかで、さらには運動の公的な終焉にさいして現代美術との境界線で葛藤した「シュルレアリスム」をとおして、この運動はどこにあるのかという肯定形の問いをあらためて掲げてみたい。(パネル構成:河上春香)

【発表概要】

チェコスロヴァキア・シュルレアリスムにおける日常表象の政治性
河上春香(大阪市立大学)

本発表では、チェコスロヴァキアにおけるシュルレアリスムを、日常の表象という観点から考察する。当地でのシュルレアリスム運動の発端は、左翼的思想をもつ芸術家集団デヴィエトシルにまで遡る。彼らが提唱したポエティズムは、「想像力の戯れ」を生活へ持ち込み、日常に詩性を見出す思想であった。このデヴィエトシルを母体に、1934年にはプラハにシュルレアリスト・グループが誕生する。やがて1938年には、詩人ヴィーチェスラフ・ネズヴァルがスターリニズムへの参画を表明してグループの解散を宣言するが、その後も作家カレル・タイゲを理論的支柱として運動は継続し、ナチスの侵攻と社会主義政権の時代を経て今日に至っている。

チェコスロヴァキアでは元来、日常の驚異は美的である以上に政治的な意義を帯びるということが強く意識されていた。しかしスターリニズムに向かわずシュルレアリスムを続けた作家たちは、芸術実践が生活実践を通して政治的行動に接するというダイナミズムをとらえ、抑圧的な権力関係のうちにあっても日常が個人的な抵抗点を構成するという意味において、政治的な芸術実践を育んでいたのではないか。タイゲとネズヴァルのテクストを比較的に検討し、加えて都市表象を扱った美術作品を軸に、この問いを検討したい。

マン・レイ《天文台の時刻に──恋人たち》に関する一考察──シュルレアリスムとモードにおける唇のイメージ
小山祐美子(一橋大学)

本発表ではマン・レイの代表作である《天文台の時刻に──恋人たち》(1932-34年)をテーマに、シュルレアリスム作品の商業への接近や、それにともなう作品の解釈の変容について考察する。本作品はその制作背景から、作家の自伝的要素やシュルレアリスムの文脈から解釈されることが多く、特に性的 なイメージと結び付けられてきた。

一方でこの作品には以下のような歴史もある。女性器の暗喩である唇が大きく描かれていることから、ニューヨーク近代美術館で1936年に開催された「幻想 芸術・ダダ・シュルレアリスム」展に出品された際に来館者から「卑猥」だと抗議を受ける。しかしその直後に、化粧品会社の社長兼コレクターであるヘレナ・ ルビンスタインによって高額で借りられ、ニューヨークの美容サロン内にある新作口紅売り場に展示された。美術館で非難された作品が、新たに広告として機能したのである。また、この作品はマン・レイによるモード写真の背景に使用されるなど様々な場面に登場した。

《天文台の時刻に──恋人たち》はこれまでの一面的な見方だけではなく、商業の分野、一般女性からの視点という立場に立つことで新たな解釈を付与することができる。女性の社会進出が始まった時代において、美しい唇とは男性だけではなく女性の欲望を喚起しうるものだった。この作品の受容を通じ、シュルレアリスム作品に対する見方の変化、あるいは多面性を確認することができるのではないだろうか。

フィギュラシオン・ナラティヴはシュルレアリスムとどのように接しているのか
中田健太郎(日本大学)

フィギュラシオン・ナラティヴについては、1960年代の中ごろから活動を開始した、フランス版のポップ・アートとして紹介されることが多かった。 しかし、たとえば2008年のポンピドゥ・センターでの大回顧展『フィギュラシオン・ナラティヴ パリ1960-1972』を機に再刊された資料や、グループを先導した批評家であるジェラール・ガシオ=タラボのテクストなどをあらためて確認してみると、彼らが英米のポップ・アートに倣うばかりではなく、 むしろシュルレアリスム登場以降のフランス美術の文脈に深く立脚していたことが分かる。

本発表では、フィギュラシオン・ナラティヴの活動をシュルレアリスムとの接点に着目しつつ振りかえることによって、フランス美術の文脈におけるポップ・ アートの受容の実際について考察したい。たとえば、フィギュラシオン・ナラティヴの画家たちが絵画における運動や意味の問題を強調するときに、たびたび参照されるのは、いわゆるモダニズムの即時性にたいして連続性を提起するシュルレアリスムの美学にちがいなかった。また、このグループと最末期のシュルレアリスムは同時代的に展開していたものであり、エルヴェ・テレマックのように双方のグループに所属していた事例も見のがせない。こうした具体的な接点を検討しながら、ポップ・アートのような第二次世界大戦後の美術とシュルレアリスムがどのような関係性をむすんだのかという主題にあらたな光をあてることも、本発表の願いである。