PRE・face

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大橋先生と私
佐藤良明

この春亡くなられた私の導師、大橋健三郎先生は文学を「論じる」ことを貫かれた人だった。教壇でもみっちり論じる。会合に仲間を集めて論じ合い、その後飲み屋で、トーンを変えて、また論じ合う。

先生の中に「文学」のマグマがあって、それが知においても情においても、エネルギーの源になっているようだった。戦後の出発点において、当時アメリカで彗星のような注目を浴びた芸術作家フォークナーに入りこみ、それまでの英文学的権威に抗して、仲間と一緒に「アメリカ文学会」をスタートさせる。

ゼミの授業もそんな感じだった。発表者は、課題のテクスト範囲に基づいて論じなくてはならない。コメンテーターも指定され、発表者の内容に論を返さなくてはならない。論は参加者に開かれ、最後に先生がコメントする頃に、テクスト講読の授業は作品論を超えてしばしば文学論になっていた。文学が麻雀と同居していた時代、院生たちの編集する論集の名は『ろん』といった。

先生は学部生の私にも仲間のようにしゃべりかけた。「佐藤君、今度、僕はある会合でフォークナーの話をするんだがね──そこには小説家の小島信夫さんも来るんだよ──それでひとつ頼みたいんだが……」 何かと言えば、『響きと怒り』を色分けしてくれ、というのである。あの小説の、いわゆる「ベンジー・セクション」は、13ほどの時間層があり、それらの間を意識が突然飛ぶというしくみになっている。フォークナーが当初、それぞれの異なった時間を色分けして印刷する希望をもっていたと教わり、そのことに関心をもって書いた僕のレポートに、大橋先生が反応した。「君が塗り分けたらどうなるか、見せてくれないか」。

これはもう卒論などそっちのけで頑張るしかない。僕はクレパスを買ってきて薄い紙にベットリ塗り、それをカーボン紙替わりに差し入れて、手動タイプを叩いた。いまから思うと、この宿題は、現在に至る僕の出発点である。学問の道など考えていなかった(しかも風邪っぴきで咳をしていた)自分が、うきうきと階段を駆け下りた東大本郷キャンパス法文1号館。私は、射止められたのである。作品によってでも、理論によってでも、イメージによってでもなく、目前に立つひとりの先生の誘いが、その後の私をスタートさせた。

「その後の私」は、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、迷走する日本の大学制度とも無防備に付き合い続けた。表象文化論という学科に所属したのも、自己迷走の一過程であると、少なくとも当時は認識していた。周囲に迷惑をかけつつ大学を離れたのは、他の理由もあったけれど、今ふり返ってみれば、自分の軸を回復したかったというのが本当のところである。

大学を辞めて得た時間で、ピンチョンの翻訳が始まった。出版社の企画があっての話だけれど、それは、驚いたことに、自分自身が求めていることでもあった。大学では「文学離れ」を自分に課していたはずなのに。もはや遅きに失したとはいえ、恩師の轍を進みたくなったのか。大橋先生は、日本の岸辺で、フォークナーという大物を釣り上げた。なにかそれに似たことを自分も、と考えたのか。

ともあれ今月、『重力の虹』が世に出る。ピンチョンをちゃんと日本語に飲み込み得たかどうか、それは他人が決めることだが、何より嬉しいことに、周囲が騒いでくれるのである。「新訳が出る」だけのことに、これだけ熱くなる人々を、アメリカ人などは理解できまい。日本語は、今もおのれの内に、世界を飲みこもうとする強い衝動を抱えているのか。語学教育改革の空振り続きと相呼応するかのように、日本語は、セカイの先端や高峰に強い征服意欲を燃やす。

表象文化論学会を観察してきて思うことは、「セカイを飲みこもう」という気持ちの強さである。それぞれの研究対象は、日本中世のダンスかもしれないし、最先端の音楽メディアかもしれない。でもそれら様々な対象を、自分の、日本語の思いの核に引き寄せ、持論をぶつけ合うことに悦びを見いだすメンバーがここには多い。政財界主導の「グローバル」の要請に、ちょっと逆らっている、とも言える。

でも、これでいいのだと居直ることも大事である。ソクラテスの昔から、そういうのが人文学の基本ではなかったか。哲学も文学も芸術も、その表現者も批評者も、自我を走らせてナンボである。我の張った同士が、悪くいえば、互いにへこまし合う。私たちの領域で重要な仕事をした人は、フーコーであれサイードであれ渡邊守章であれ、みんな他人をへこませている。

以上、広報委員長の横山君から「新会長のひとこと」を求められ、「表象文化論」には何故名前に「論」がついているのかというところから考えたら、かような公私混同のエッセイになった。それもまあ自分に「世界は仲間と自分でできている」という感覚があるからであって、その感覚もまた大橋健三郎先生にいただいたものらしい。幸せなことに、還暦を過ぎた今も、それを信じてやっていける。みなさんのお陰である。まだお会いしたことのない方を含め、今後とも、どうぞ、よろしく、お願いいたします。

佐藤良明