新刊紹介 | 単著 | 『明治の表象空間』 |
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松浦寿輝(著)
『明治の表象空間』
新潮社、2014年5月
人の意識と世界のありようが歴史のなかで変容していくさまを、意識と世界の両者を共に織りなす「表象」の分析を通じて明らかにすること。このような表象文化論の王道を行く試みを、明治前期の日本に対して徹底的に遂行した書物が『明治の表象空間』だ。ここで扱われる表象は、とりわけ言語表象、つまり「近代日本語」という言説のシステムである。
法律、学問、文学、その他あらゆる言説の現場における書記行為を通じて、新たな言語表象システムとしての近代日本語が生成し、同時にそれによって近代国家としての「日本」や近代的主体としての「日本人」が織りなされた。本書が扱う言語表象の「空間」とは、こうした出来事が出来した場、すなわち相互に共鳴し合いネットワークをなす同時代の言説の総体である。この表象空間の発生と自己更新のダイナミズムを捉え、それが政治的な意味でも文学的な意味でも、現在に至るまでこの国の構造を規定したさまを明らかにすることが、端的にいって本書の成し遂げたことだ。
本書が描き出す明治の表象空間を理解するうえで強調すべきは、それが主体に対して世界を透明に媒介する表象システム──啓蒙的理性を背景とした言文一致体という書記システム──に矮小化されるようなものではないという点だ。著者によれば、言文一致のシステムが、それに対応した自己同一的内面の持ち主、つまり近代的主体をもたらしたというテーゼ──山田有策が先駆的に指摘し、柄谷行人『日本近代文学の起源』によって広く知られるテーゼ──は、半分しかあたっていない。明治初期の言説のマトリクスのうちでは、言文一致体の萌芽とともに雅文体、俗文体、折衷体が一つのテキストの中ですら入り乱れていた。著者は、中江兆民や樋口一葉の文章のうちにその典型を見る。彼らの「文」は、主体の統御を逸脱し、理性的な書記システムに支えられた主体と国家の基底を掘り崩して穴をあけてしまうような危険な力を内包している。これらもまた、発生時の近代日本語を本質的に構成していたのだ。
つまり、近代日本語は啓蒙的理性と非理性の両極の間においてこそ成立した表象システムなのであり、非理性は理性がそうであるのと同程度に近代性そのものに本質的に内属している。この穴=非理性のもたらす自由と愉楽、そしてシステムへの批判力こそ、明治の表象空間から我々が汲み取るべき最大の可能性なのだ、というのが本書の立場である(なお、この点については、本学会会員千葉雅也氏が『新潮』2014年9月号に寄せた「言語、形骸、倒錯──松浦寿輝『明治の表象空間』について」において詳しく論じているので参照されたい)。
『明治の表象空間』の特徴として一つ指摘しておきたいのは、先行研究に対するポジショニングである。いわゆる思想史や文学史の先行研究に対する言及を必要最小限に留めたのは、そもそもそのような研究の文脈に分節される手前の言説の総体を一挙に捉えるための戦略的な選択であったろう。そうした中で目を引くのが、ミシェル・フーコーと藤田省三、とりわけ1966年という同じ年に刊行された『言葉と物』と『天皇制の支配原理』への参照だ。著者はおそらく意図的に、それぞれ異なった学的伝統のもとで読まれてきた二つの思想を接合して継承してみせている。私の考えでは、著者も含めた三者に共通するのは、人をこのように思考せしめるシステム(秩序や制度)の発生を執拗に追求する態度と、システムが無根拠性や矛盾をはらむゆえに発揮される逆接的な力への感受性である。結果として本書の論述は、フーコーと藤田の名に代表される学的伝統のどちらかのみに依拠するような、安直な近代主義的政治思想、あるいは政治的ポストモダンの、いずれとも一線を画している。
通読に覚悟の必要な大著ではあるけれども、明晰な分析と時に過剰にも見える修辞とが同居する著者一流の語り口に導かれつつ、啓発される愉楽を感じながら、読者は明治の表象空間を旅することができるだろう。ただしそれは、私の場合もそうだったが、出発前と同じ立場でいられるような無事な旅ではないだろうけれども。(横山太郎)