研究ノート | 武田 宙也 |
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ポイエーシスとプラクシスのあいだ
——エリー・デューリングのプロトタイプ論
武田 宙也
20世紀後半の芸術が、しだいに「脱物質化」(ルーシー・リパード)の傾向を強めていくなかで、「ポイエーシス」(制作)よりもむしろ「プラクシス」(実践)の次元に重心が移ってきたという認識は、いまやひとつの美術史としてひろく共有されている。また、こうした流れにある意味で棹さし、今世紀におけるその普及に大きく貢献した言説として、ニコラ・ブリオーによる「関係性の美学」の存在も、今日ではよく知られるところとなった ※1 。
一方で、このブリオーの議論に対しては、クレア・ビショップをはじめとする論者からさまざまな批判も出てきている ※2 。たとえば、当のビショップの批判は、おもにそこで問われる「関係の性質」をめぐるもの、つまり「いかなるタイプの関係性が、誰のために、なぜ生みだされるのか」という問いに焦点を絞ったものであったが、同時期にこれとは異なる論点から、「関係性の美学」をはじめとするいわゆる「プロセス優位の美学」に批判的な眼差しを向けてきた論者に、フランスの若手哲学者エリー・デューリングがいる。
とはいえ、その主張はいたずらに反動的なわけではない。デューリングが行うのはむしろ、上記の諸論の前提となっているポイエーシスとプラクシスという二項対立自体の問い直しであり、そこで彼が、いわば「第三項」として提示するのが、「プロトタイプ」という概念である。この聞き慣れない用語によって指し示される「芸術作品の新たな地位」を彼は、純粋な実践とも、純粋な「もの」(オブジェ)とも異なるものとして、「準=芸術品」(quasi-objets d’art) ※3 と呼ぶ。
一方で、この「プロトタイプとしての芸術」に対置されるのが、「芸術のロマン主義的体制」とでもいうべきものである。デューリングによれば、ロマン主義の最大の特徴は、有限の「作品」と無限の「〈観念〉」(Idée)という二項を措定した上で、つねに後者を特権化する点にあるという。そして彼は、このロマン主義が、1960年代のコンセプチュアル・アートから1990年以降のリレーショナル・アートに至るまで、「プロセス的なもの」を美的ドクサとする(一見ポスト近代的な)現代アートに共通して残存することを指摘する。有限の「作品」を無限の〈観念〉の「受肉」として捉えるにせよ、あるいは、受肉した「作品」ではなく受肉の行為そのものに重きを置くにせよ、結果(作品、オブジェ、完成したもの、規定されたもの、閉ざされたもの)よりもそこに至る過程(プロセス、プロジェクト、未完成のもの、未規定のもの、開かれたもの)に優位性を与える点において、それらはいずれも一枚のコインの両面に他ならない、というわけである。この流れは畢竟、「脱作品化」(désœuvrement) ※4 の方向性を、つまり「結果なき過程」とでもいうべき方向性を志向することになるだろう。こうしてデューリングは、芸術の「プロセス的体制」と「パフォーマンス的体制」をロマン主義の二つの条件とした上で、われわれはこの近代の呪縛からいまだ脱していない、と断じることになる。
さてそれでは、この強固な軛からの離脱の方途として示される「プロトタイプ」という概念とは、またそこから導かれる芸術のあり方とはいかなるものであるのか。デューリングはさしあたりそれに、「「プロセス」というカテゴリーを介さずに、オブジェの論理とプロジェクトの論理を結びつける形態」という規定を与える。それは、一方で、いまだ実現されざるプロジェクトであると同時に、他方で、すでにたんなるプロジェクト以上のもの、まさにオブジェに他ならない、そうしたものである。重要なのは、このオブジェが、いまだ完全に安定化したものではなく、経験による「テスト」を受け入れる余地を残したものだという点である。ここから彼は、それを「観念的(idéal)であると同時に実験的(expérimental)なオブジェ」と呼ぶ ※5。
要するにデューリングは、プロトタイプを、プロジェクトとオブジェのあいだに(あるいはプロセスと作品のあいだに)位置するものとして想定するのだが、ここには、彼の「ロマン主義」への違和感が反映している。デューリングによれば、オブジェの側面を持たないアート、たとえばコンセプチュアル・アートのような「可能的なものとしての作品」は、つねに成功を約束されているという。というのも、そこにはこの成功を妨げるような要素、つまり「摩擦」が存在しないからである。したがって、構想された時点で原理上「完成」しているこれらの芸術においては、それが実現されるかどうか、あるいはどのように実現されるかといった事柄は問題とならない。彼がこれらの芸術を「ロマン主義」と称する所以である。それに対してプロトタイプが大きく異なるのは、それがこの「摩擦」を、それゆえ「失敗」の可能性を排除しない、という点である。さらにそれにとどまらず、プロトタイプにおいては、作品の実現における失敗もまた、創造プロセスの構成的次元とみなされる。すなわちそこでは、失敗自体が作品のひとつの「デモンストレーション」となっている、というわけである。もちろん、すでに述べたとおり、プロトタイプもまたプロジェクトの側面を持つが、そのプロジェクトは、コンセプチュアル・アートのそれのように、実現する以前から機能するようなものではない。逆にそれは、ひとたび実現したとしても機能しないことさえある。たとえば、デューリングがベルギー出身の現代美術家パナマレンコに着目するのは、彼の飛行機が「飛ばないことができるように」(pour pouvoir ne pas voler)、つまり、つねに失敗の可能性を胚胎したものとしてつくられているためである――とはいえそれは、けっして失敗を意図したり、そこに開き直っているわけでもない。パナマレンコの作品において、失敗はプロジェクトの一部をなしており、ゆえにそれは、「エンジニアとしての芸術家」のたえまない実験(技術的な操作)と不可分のものであるのだ。プロトタイプが、「観念=手続きの触知可能な面」 ※6 として機能すると言われるのは、この意味においてである。そして、「エンジニアとしての芸術家」とは、この足場の上で試行錯誤を繰り広げる者に他ならない。こうして、プロジェクトを段階的に練り上げること、いわば「観念的なものをきちんと作り上げること」は、可能的なものと実在的なものの対立からの離脱を可能にするだろう。デューリングはプロトタイプを、「可能的なものの実現としての作品」に対して、「モデル化(modélisation)という意味でのモデル」※7 、つまり「一連のつくるべき作品群の原理を示す唯一のピースとしての作品」 ※8 と規定する。
終わりのないプロセスとしての「開かれた作品」とは逆に、「プロトタイプとしての作品」は、プロセスの「中断」(coupe)とみなされる。そこで問題となるのは、プロセスを休止することであり、オブジェという形でプロジェクトに(その都度)何らかの一貫性を与えることである。ただしそれは、あくまで「作品の可能性の物質的なデモンストレーションに必要な最小の安定性」 ※9 である。創造プロセスを安定させるというのは、さまざまな媒介をそれぞれに対応する支持体に合致させることに他ならない。注目されるのは、デューリングがこの支持体に、テクスト、イメージ、オブジェ、あるいはさまざまな装置といった、通常の意味での「もの」だけでなく、「美術史に書き込まれた芸術の身ぶりや理論への参照」や、さらにはこの創造の場の成員たち(アーティスト、スポンサー、キュレーター、ギャラリスト、批評家、ジャーナリストなど)同士の「関係」までも含めている点である。そして、このように安定化されたプロセスの各段階はどれも、それ自体が「権利上」展示されうるものだとされる。デューリングは、このプロセスの安定化を「翻訳」と呼び、問題は、「作品を同時に複数の平面上で翻訳することによって、プロセスの総体を集約するイメージ(中断)の上で止まること」 ※10 であると述べる ※11 。こうして、プロトタイプの論理において、作品の産出プロセスは、連結と変形の、転移と翻訳の連鎖として現れることになるだろう。ここから彼は、プロトタイプを、作品の生成のあらゆる段階で現前する、いわば「生成の構成要素」(unité de devenir) ※12 とみなす。ただし、そこで注意を促されるように、プロトタイプの特徴は、それがあくまで生成の「構成要素」という点にあるのであって、それは生成そのもの(プロセス)とは峻別されなければならない。彼の表現を用いるならば、そこで行われるのは、「あるフローから、運動状態にあるさまざまな痕跡を採取すること」 ※13 なのだ。この「運動状態にある痕跡」は、芸術を、たんなるオブジェとも、また、オブジェとしての提示を断固として拒むプロジェクトとも異なるものとして、したがってまたそれを、ポイエーシスとプラクシスのあいだで捉えなおすひとつの可能性を秘めているように思われる。
武田宙也(日本学術振興会特別研究員/大阪大学)
※1 Nicolas Bourriaud, Esthétique relationnelle, Dijon, Presses du réel, 2001.
※2 Claire Bishop, “Antagonism and Relational Aesthetics,” October, no. 110, Fall 2004.(「敵対と関係性の美学」星野太訳『表象』05、表象文化論学会、2011年)
※3 Elie During, « Prototypes : un nouveau statut de l’œuvre d’art », in Esthétique et société, Colette Tron (dir.), Paris, L’Harmattan, « Esthétiques », 2009, p. 18.
※4 Ibid, p. 23.
※5 「実験」(expérimentation)もまた、デューリングが「プロセス」に対置する概念である。ここでは、プロセスを「始まりも終わりも、また成功も失敗もないもの」として規定したジョン・ケージが念頭に置かれている。Cf. Elie During, « Quelques régimes d’expérimentation », in In actu : De l’expérimental dans l’art, Elie During (dir.), Dijon, Les Presses du réel, « FABULA », 2009, pp. 367-370.
※6 Elie During, « Prototypes : un nouveau statut de l’œuvre d’art », op. cit., p. 44.
※7 Elie During, « Du projet au prototypes (ou comment éviter d’en faire une œuvre ?) », in Panorama 3.Salon des prototypes, Le Fresnoy, Studio National des Arts Contemporains, 2002, p. 18.
※8 Ibid., p. 24.
※9 Ibid.
※10 Ibid., p. 26.
※11 ここには、彼の「共存」(coexistence)についての考え方(時間=空間的な共存の観念)も関わってくるだろう。Cf. Elie During, Faux raccords : La coexistence des images, Arles, Actes Sud, « Constructions », 2010, pp. 11-25.
※12 この用語はシモンドンからとられている。Cf. Gilbert Simondon, Du mode d’existence des objets techniques, Paris, Aubier, 1958, rééd. 1989, p. 20.
※13 Elie During, « Du projet au prototypes (ou comment éviter d’en faire une œuvre ?) », op. cit., p. 26.
Elie During, « Prototypes : un nouveau statut de l’œuvre d’art », in Esthétique et société, Colette Tron (dir.), Paris, L’Harmattan, « Esthétiques », 2009.
Elie During (dir.), In actu : De l’expérimental dans l’art, Dijon, Les Presses du réel, « FABULA », 2009.
Elie During, Faux raccords : La coexistence des images, Arles, Actes Sud, « Constructions », 2010.