小特集 座談会:日本アニメのメディア・エコロジー 3

座談会
日本アニメのメディア・エコロジー

マーク・スタインバーグ+アレクサンダー・ツァールテン+門林岳史

記事構成:門林岳史

TK:アレックスはヨーロッパでのアニメ研究の動向にも詳しいと思うので、それについても少し話してもらえますか? 北米とは違う傾向が見られたりするんでしょうか?

AZ:全般的には北米よりもさらにテクスト読解に向かう傾向が強く、テクスト読解と人類学の分裂は深いと言えると思います。北米と同じく、若い世代の研究者たちのあいだではファン・カルチャーへの関心が強いのですが、国家単位のファン・カルチャーではなく、例えば中国での同人誌文化がどういう状況になっているか、それが日本のマンガやアニメをどれくらい参照しているのか、あるいはそれがどのようなかたちで新しい参照のシステムを構築しはじめているのか、そういう問題に多くの関心が集まっています。

MS:そこでは日本の脱中心化が問題となってくるのでしょうか? ファン研究ではしばしば、母国への参照が問題となってきます。この場合の母国は日本ということになりますが、その結果、受容の場の脱中心化やそれぞれの文化への再文脈化が議論されるよりは、日本のアニメの「正しい」消費のあり方というかたちで日本のアニメが「物象化(reification)」されてしまうことも多い。ヨーロッパの研究の動向はこのような枠組みに批判的なのでしょうか?

AZ:若い世代の研究者の多くはファン・カルチャーを直に経験していますから、中心的な参照点、真正性の源泉として日本を物象化するようなことは彼らの関心ではありません。これはある種アイデンティティ・ポリティクスの問題ですが、彼ら自身がファンであり、さまざまなファン・カルチャーが存在するという感覚を持っています。ヨーロッパには国家を越えた非常に密なファンのネットワークが存在するのも、こうした研究がいまヨーロッパで盛んになりつつある背景かもしれません。ヨーロッパではファンの集会が盛んに開催されていて、例えばイタリアのファンが集会に参加するためにスウェーデンまで出かけていって、そこでさまざまな国から来ているファンと会ったりする。そこで得られる感覚は、オリジナルとコピーの関係というよりはさまざまなヴァリエーションがあるという感覚です。これは私の印象ですが、多くの研究者はこうしたファン・カルチャーのなかから出てきていますから、その経験が彼らのパースペクティヴを強く規定してしまうという問題点もあります。そういう意味では、中心/周縁という視点は、彼らの研究にとって害というよりはむしろ有益かもしれません。

MS:ファン・カルチャー研究は北米でも盛んになってきていますね。そこには、「市民の社会参加(civic engagement)」の新しいかたちとしてファンの活動を理解するヘンリー・ジェンキンスの研究の影響もあると思います。

アニメ研究の未来

TK:日本と海外のアニメ研究の動向についていろいろ語ってきました。そのなかでさまざまな肯定的な側面も指摘されたけれども、そこに常に否定的な側面が影を落としているという全般的な印象を受けています。もっとも大きな否定的側面は、アニメをめぐるさまざまな言説や文化、研究者やファンのあいだのコミュニケーション不足かもしれません。こうしたアニメーションの生態系をより実りあるものにしていく希望について、最後にそれぞれの立場から語っていただけますか?

MS:確かに私たちの会話は否定的に響いたかもしれませんが、実際にはたくさんの肯定的なことが進行しています。問題は、ここから先どこに進むかということです。例えば『メカデミア』はもうすぐ廃刊します。つまり、北米におけるアニメ研究の出版媒体がなくなるのですが、それは再スタートを切るということでもあり、それがどういうかたちになるのか私は関心を持っています。私自身の研究のことを話すと、私はメディア・ミックスの中心をなすものとしてのアニメについて研究してきたのですが、私にとって、メディア・エコロジーという考え方、広い領域のなかでアニメを捉え直すという立場はとても重要で、私のアニメ理解の根幹をかたちづくってきました。つまり、メディア・ミックスを駆動していくエンジンとしてアニメを理解すること、けれども、それと同時に、グッズやウェブページや二次創作といったさまざまなメディアの編成に根本的に従属しているものとしてアニメを理解すること。こうしたアプローチで研究するべき事は、歴史的な研究から、さまざまなモデルの理論的検討まで、まだまだたくさんあり、実際、新しい研究がどんどん出てくるでしょう。

AZ:まったく同意です。この座談会で描いてきたよりも実際には未来は明るく、今後数年のあいだに刺激的な研究がどんどん出てくるはずです。この2、3年でだんだん研究のスピードも増し、そのヴァラエティも増え、それらをつなぐパイプラインも築かれてきました。10年前のことを思い返してみると、その頃よりもはるかに多様なアプローチや方法論が現れてきて、複雑な言説が展開されているので、未来については楽観的でしかありえないような状況です。そのような一連の領域や方法論のなかには、これからもまだまだ発展させていく余地のあるものが多く、今日語りあった産業研究のことやメディア・エコロジーの核としてのアニメという着想もそこに含まれるでしょう。多くの研究者が現在、そうしたトピックに取り組んでいるので、興味深い研究がすぐに出てくるはずです。
もうひとつの点を挙げると、『メカデミア』その他のアニメ研究のなかから東浩紀や斎藤環などが翻訳紹介されてきましたが、それらの言説は他の研究分野にも刺激を与えています。日本で展開されてきたメディア理論への関心は、アニメ研究から出てきたし、アニメ研究に刺激を与えてきました。日本のメディア研究やメディア理論、メディアの哲学についての研究が今後どんどん発表されていくはずですが、そうした動向も、さまざまな領域の研究者たちが膝をつき合わせて、よりディープなテーマについて議論していくための共通の言語を築いていくことにつながっていくことを期待しています。

TK:お二人も日本のメディア理論についてのアンソロジーを現在企画していますよね。

AZ:ええ、1920年代から現在までの日本におけるメディアをめぐる言説史のアンソロジーをマークと二人でいま準備しています。来年には出版できればと……、楽観的でしょうか(笑)。日本では何十年ものあいだにメディアについてのきわめて豊かな言説が展開されてきたけれども、それらは海外ではほとんど知られていないし、日本でも歴史として構造化されていません。それらの言説を歴史として紹介するのがこのアンソロジーの目的ですが、それと同時に北米、日本、ヨーロッパの研究者がこの企画に関わることで国際的な議論を活性化していく意図もあります。出版に先立って今年の11月にケンブリッジでワークショップを開く予定ですが、門林さんも参加してくれるということで……。

TK:招待してくれてありがとう。とても興味深い試みで、特に私が面白いと思うのは、例えば先ほどアレックスが名前を挙げた東浩紀や斎藤環のような論客の仕事をある種のメディア理論として読解しようとしている点です。考えてみれば確かに彼らの仕事にはメディアについての理論として理解できる側面がたくさんあるのですが、日本ではあまりそのようには理解されていませんから。

AZ:それだけでなく、例えばチューリッヒ大学のファビアン・シェーファーはメディア哲学としての京都学派について論考を書く予定です。つまり、京都学派の一定のアプローチをメディア哲学として再解釈するということですが、実は「メディア哲学」はドイツではすごく一般的な言葉です──英語では一般的ではないのですが。だから、ファビアンの試みはそうしたドイツの文脈と京都学派の言説をつきあわせる試みでもあります。つまり、私たちはメディアについての言説とはなにか、それはなにを意味しているのか、ということをとても広いパースペクティヴで捉えようとしているんです。

MS:東浩紀やそれ以降のゼロ年代の批評家たちの仕事をメディア理論として読解するということは、つまり、今日のメディアの諸形態に彼らがどのように取り組んでいるかを考察するということでもあります。確かに彼らはサブカルチャーの理論家と見なされていますが、それはつまり、彼らはアニメやマンガ、ライトノベルといったサブカル・メディアについて考察しているということですから、それらのメディアに対する彼らのアプローチから理論的な諸要素を取り出していくのが、私たちがやろうとしていることです。さきほど、アニメをひとつのメディアとして捉え、テクストとして読解するのではなく、より広い領域へと脱中心化することが重要だというアレックスの指摘がありましたが、これもまた、「アニメ」と呼ばれているものをより広いメディア理論の枠組みに位置づけなおす試みと捉えることができるかもしれません。

TK:京都学派と東浩紀が一冊の本に収められ、それにメディア理論というタイトルが与えられるというのは、日本の出版界ではほとんど考えられないことですね。それだけをとっても、北米から距離をおいて日本のアニメ、そして日本のメディアを研究することの大きな利点はあると言えそうです。今日はありがとうございました。

(2013年4月7日、ボストン、モントリオール、大阪にて)