新刊紹介 翻訳 『魔法使いの弟子』

酒井健(訳)
ジョルジュ・バタイユ(著)『魔法使いの弟子』
景文館書店、2015年11月

本書はジョルジュ・バタイユがLa Nouvelle Revue Française誌1938年7月1日号に発表した « L’apprenti sorcier »の拙訳である。末尾に付した拙文の解説では、このテクストの主題の一つである恋愛の問題を、バタイユと愛人ロールの関係から概観した(※1)。

ここではもう一つの重要主題である神話について簡単に触れておきたい。

神話とは神々の行状の物語だが、その神々は往々にして宇宙の或る面の代替的存在、つまり天空の神、海の神、植物の神などであって、宇宙の不合理を人間世界に及ぼしたり、神々自身宇宙の気まぐれの犠牲になって悲劇的な運命を辿ったりする。バタイユが本書で強調するのは、このような神話が人間の共同体の中で儀式や祭りを通して生きられてきたという事情だ(※2)。この頃のバタイユは、共同体の成員が宇宙と実存的な関係を生きて、果てしなき総体性(totalité)を実現することを主題に掲げている。そしてそれをニーチェ思想への帰結として呈示していた。じっさいニーチェは処女作『悲劇の誕生』(1872)以来、悲劇的神話を生きる祝祭共同体の創成を夢見つつ、後期になるとこの共同体構想に「大地への愛」「運命愛」という宇宙の非理性を積極的に是認する教説を重ね会わせていた。

1938年のバタイユの視界に入る神話と共同体の光景は、これとは全く違って、宇宙への視座を失った「人間的な、あまりに人間的な」眺めでしかなかった。ドイツ国民は、ローゼンベルクの『20世紀の神話』(1930)に導かれ、ナチスの指導者に焚き付けられて、自民族優越の神話(ゲルマン民族=アーリア人=古代ギリシア文明の建設者)をナチス主催のイヴェントで祝っていたのである。ニーチェの哲学も動員されたが、「権力への意志」の哲学者に歪曲され、ディオニュソスやデーメーテールといった非理性のギリシアの神々への彼の傾斜は捨て去られていた。

バタイユは、国家にしろ文学者集団にしろ人間の特定の組織に神話を閉じ込めることを拒んだ。彼が深い神話の力に突き動かされていたからである。神話自体が宇宙の力を放って、そのような限定を拒んでいたからである。この力は神話を語って生きようとする彼自身をも滅ばしかねないものだった。神話自体も神話の不在へ導かれていく(※3)。形として残るものが、所有者を生み、俗なる使用の犠牲になっていくという人の世の宿痾を宇宙が否定しているのである。

バタイユのこうした神話観は、ナチスを超え、戦後のシュルレアリスム展を超えて、21世紀のナンシーの最新刊『それ本来に即して言えば──神話をめぐる対談』(2015)と響きあっている。神話は「自己自身について自ら語る」「《神話》という語は、言葉本来の事態、つまり所有者のない、どんな私物化もありえない言葉そのものを志向する記号なのだ」(※4)。ここでナンシーが言う「自己」とは私という一個の主体のことではない。私でありながら不特定多数の人間でもあるという無限定の人間の広がりである。ナンシーはこれを「私たち」と言う。バタイユの宇宙的総体性の近くにある共同性だ。

1939年9月から西欧は再び世界大戦に突入するが、バタイユにとっては戦争もまた人間中心の世界が破られて宇宙の生がなだれ込む事態だった。そのなかで綴られた『無神学大全』の三作、すなわち『内的体験』(1943)、『有罪者』(1944)、『ニーチェについて』(1945)は、「魔法使いの弟子」の神話概念の実践だったと言える。彼が語る無神学の神話は、もはや神々の名も人間の共同体も喪失し、筋立てすらも失っているが、そうした限定を破るほどの強い力に動かされている。「私たち」、そして宇宙の力が、まるで恋人たちの束の間の「炉」のように聖性を放ち、痕跡とは違う言葉の本性を感得させている。(酒井健)

[脚注]

※1 バタイユのこのテクストについてはすでに福島勲氏が好論「神話の可能性、供犠の必然性──バタイユ「魔法使いの弟子」における共同体の設計図」を発表していて、現在ネット上でも閲覧できる。バタイユの主題の広がりを的確に紹介し検討していて、たいへん参考になる。(『仏語仏文学研究』、第27号、2003年、東京大学仏語仏文学研究会、p159-177。

※2 「唯一神話だけが、肉体にまで入って人々を結合させ、彼らに同じ期待を抱くように要求する。神話とは、どの踊りにもあるあの勢いのことだ。神話は実存をその《沸騰点》へ高める。悲劇的な情動によって、実存は自分の聖なる内奥に近づけるようになるのだが、神話はまさにそのような悲劇的な情動を実存に伝達する。というのも神話は、ただ単に、運命の神々しい形象であるばかりでなく、この形象が移される世界、つまり共同体のことでもあるのだから。神話は、共同体から切り離すことができない。神話は共同体の一部になっている。儀式の場において、共同体は神話の王国を所有することになるのだ。」(バタイユ『魔法使いの弟子』、拙訳、景文館書店、30頁)。

※3 「神話は、持続的なものであれ束の間のものであれ、神話の不在へと消えてゆく。この神話の不在こそ神話の喪(も)であり真実なのだ。」(バタイユ「神話の不在」、拙訳、『ランスの大聖堂』所収、ちくま学芸文庫、2005年、148頁)。バタイユのこのテクストは、パリで開かれた国際シュルレアリスム展のカタログ『1947年のシュルレアリスム』に掲載されたが、シュルレリストたちを再結集させる目的に神話が用いられる事態に、神話の側から異議申し立てしていると見ることができる。

※4 Mathilde-Girard, Jean-Luc Nancy, Proprement dit, entretien sur le mythe, Lignes, 2015, p. 31.

小林康夫、大池惣太郎(翻訳)ホルヘ・センプルン(著)『人間という仕事 フッサール、ブロック、オーウェルと抵抗のモラル』未來社、2015年11月