PRE・face

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『表象』というメディウム
堀潤之

2006年に設立された表象文化論学会は、昨年、設立10周年を迎え、年1回のペースで世に送り出してきた学会誌『表象』もこの4月に刊行された号で合計10冊を数えることとなった。出版不況などとも言われる状況下で、ごく慎ましい部数での発行であるとはいえ、学会の活動成果を継続的に世に問い続け、とりあえずの節目となる10号まで到達できたことを、設立時から学会の運営に関わり、特にこの2年間には編集委員長の役割を担った者として素直に嬉しく思う。

『表象』という媒体の最大の特徴は、煎じ詰めれば、学会誌であると同時に、商業誌でもあるという点に見出されるだろう。思い返せば、『表象』の「祖先」にあたると言ってもいい雑誌『ルプレザンタシオン』(筑摩書房刊)──高橋康也・渡邊守章・蓮實重彦の三氏の編集により、1991年4月から1993年4月まで、全5号が刊行された──も、「商業的な定期刊行物としておのれを提示」することを高らかに宣言し、資本主義的な「商品」としての価値を帯びることをみずからの「運動の契機」にしようとしていた(「創刊の言葉」より)。わたしが大学に入学したとき、この雑誌はすでに終刊していたが、さっそくバックナンバーを取り寄せて耽読したことを覚えている。学部生にとってはいささか難解で高価な雑誌だったが、商業的に流通していたからこそ、そのような遭遇もまた容易になったのだ。

ある意味では、『表象』は『ルプレザンタシオン』という先駆的な企てを時代の変化に応じて鋳直しつつ、より持続的な場として存続させる試みであると言えるかもしれない。それが可能なのは、学会という受け皿があるからにほかならない。『ルプレザンタシオン』が少数の突出した個人による責任編集というやり方をとらざるをえず、また主として駒場の表象文化論研究室とその周辺の限られた人脈で執筆・翻訳を担わなければならなかったのに対して、『表象』は2年間の任期での編集委員会体制をとることができ、潜在的な書き手である数百人の会員は駒場だけに限らず全国の大学に拡がっている。そのため、特定の個人に長期にわたって過度な負担が集中することもなく、また大会や研究発表集会などの場を介して新たな書き手を発掘しやすいという状況が整っている。そういうわけで、『表象』という雑誌は、相対的には随分と「楽」に回せる仕組みになっているのだ。

とはいえ、だからといってこの学会誌が安易に作られているということでは決してない。査読を経た専門的で高水準の学術論文と、会員の刊行した学術書の書評を掲載するだけで事足れりとせず、商業誌としての性格をとりわけ際立たせるために、毎号、人文学のさまざまなトレンドを見極めながら、時には複数の特集を組むことにしている『表象』の場合、それぞれの局面でそれなりの戦略的なエディターシップが求められることは言うまでもない。

投稿論文の査読に関しては、ひとつの論文につき最も適切と思われる3名の査読者(うち1名は編集委員)が評価を下し、その結果を最大限に尊重しつつ編集委員会の合議で採否を決めるというやり方をとっているので、編集委員会の裁量の余地は少ない。集団的な査読体制という仕組みの常として、どうしても瑕疵の少ない論文が優先され、鋭敏な問題意識や着眼点、論の運びの破天荒さやスケールの大きさなどは、それ単体では高評価を得にくい傾向があることは否めない。もちろん、掲載に至った論文が高い水準に達していることは疑いを得ないとしても、個人的には、きれいに仕上がった成果だけでなく、思考を誘発するような途中の過程を文章化したものを公開できる場があってもいいのではないかと思う。

会員の刊行した学術書の書評については、通常の多くの学会とは異なり、書評者を非会員にも依頼できることとしている。書評対象の本の核心を射貫き、著者をたじろがせるような書評が生み出され、そしてまた書評者自身もその本によってある種の変容を被らざるを得ないような、そのような遭遇が生起することを目論みつつ書評者を学会内外から選出するのは編集委員会の重要な任務のひとつであろう。著者自身による5冊のブックガイドも含む『表象』の書評欄は、現状でも十分読み応えがあると思うが、1946年にバタイユが創刊した『クリティック』誌に倣ってより長文の「書評論文」を掲載するとか、外国語のものも含めた複数の書籍をあわせて評するとか、同じ一冊の本を複数の書評者が合評するといった新方式を試みても面白いかもしれない(この最後の合評会方式は、書評パネルというかたちで、大会・研究発表集会では時おり行われている)。

特集のコンテンツは、原則的には、夏の大会や秋の研究発表集会でのシンポジウムを、そもそもの企画・立案にあたった企画委員会や開催校と連携しながら、さらに膨らませるというかたちで構成することが多いが、編集委員会が早い段階からコミットしたり、あるいは編集委員会の独自企画として組み立てることもある。編集委員会がエディターシップを最も発揮できるのはそのような場合なので、ここで最近の2号での事例を振り返っておきたい。

『表象09』のマンガ研究をめぐる小特集「マンガ「超」講義──メディア、ガジェット、ノスタルジー」は、編集委員会の肝入りで、まず新潟大学での研究発表集会にて、石岡良治・中田健太郎・三輪健太朗・星野太の各氏に実施していただいた企画パネルがもとになっている。続く『表象10』では、ひとつの節目であることも意識して、例外的に大会や研究発表集会という場を経ずに、岡田温司氏と田中純氏による長大な対談「新たなるイメージ研究へ」を企画するとともに、森山直人・武藤大祐・田中均・江口正登の各氏による共同討議を中心とする特集2「パフォーマンス論の現在」を江口氏に構成していただいた。

いま改めて振り返ってみると、この3つの企画が扱っている対象──マンガ、イメージ、パフォーマンス──は、いずれも、既存のディシプリンの狭間をすり抜け、思わぬところで別の領域と通底し、領域横断的な運動を誘発するような、とらえがたい対象である。マンガ研究は美術史、映画研究、視覚文化研究などの知見を取り入れながら新たなステージに入りつつあるように見受けられるし、「半透明」あるいは「徴候」としてのイメージという考え方も、イメージを単にスタティックな対象としてではなく、曖昧で、多感覚的で、ダイナミックなプロセスとしてとらえようとするものだし、演劇やダンスから儀礼・祭祀までを包括する「パフォーマンス」の概念はまさに諸領域の境界を横断するような概念である。表象文化論が、新たなディシプリンの確立を目指すものではいささかもなく、従来的なディシプリンでは掬い上げにくい曖昧な対象に取り組み、それを通じて既知の安定した知的風景の攪乱を志向する運動体という一面を持つとするなら、この3つのコンテンツはとりわけすぐれて表象文化論的な実践を体現していると言いうるだろう。

先にも引いた『ルプレザンタシオン』の「創刊の言葉」は、雑誌のかたちをとるこの「記号」が「間違っても確かな場所の占有を目指したりはしない」ことを確認し、「あたりを埋めつくしている言葉たちのあるかないかの隙間に滑り込み、その厚みをかいくぐりつつひたすら偏心し、無方向に拡散してゆくという運動」をその「記号の夢」としていた。私見では、一見慎ましく聞こえるかもしれないこの言葉は、『表象』という媒体=メディウムが究極的に目指すところにもいまなおそのまま当てはまる。既存の言説が形作るともすれば硬直しがちな体制を揺さぶり、褶曲させ、組み替え、新たな知の風景を現出させること。『表象』がどのような芸術的・美学的・社会的現象を取り上げるにせよ、そのような知的態度を葬り去ることだけはあってはなるまい。

堀潤之