新刊紹介 | 翻訳 | 『自然の鉛筆』 |
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金井直(ほか分担執筆)
ウィリアム・ヘンリー・フォックス・トルボット(著)青山勝(編著・翻訳)『自然の鉛筆』
赤々舎、2016年1月
写真の「発明者」のひとり、ウィリアム・ヘンリー・フォックス・トルボット(William Henry Fox Talbot, 1800-1877)による、「世界最初の写真集」(本書帯)として知られるPencil of Nature (1844-46)の完全訳が刊行された。170年以上前のものであるから、当然著作権/版権は切れており、Project Gutenbergなどで全文を読むことは可能であったとはいえ、青山勝による練りに練られた、それでいて原文のニュアンスを正確に伝える訳文で読むことができる幸せはなにものにも代えがたい。
青山が駆使するルビ──「複写」に「コピー」(67)、「写し」に「ファクシミリ」(37)、「実物見本」に「スペシメン」(23)など──は、当時のイギリス紳士の言葉遣いを伝えるだけにとどまらず、19世紀中盤における「写す」ことを巡るスペキュレーション──青山は「思考実験」と巧妙に訳す(34)──や葛藤を、21世紀の私たちに伝え、それについて再び思考することを促すだろう。「複写(コピー)」と「本物そっくりの(ファクシミリ)複写」(40)の差異とは? 同じ原語でも文脈によって訳し分けられる。ある文脈では「実物」(40)、「元の」(77)と訳され、別のところではネガ像を指して「現物による」(67)と訳される「オリジナル」という概念の多義性とは? 『自然の鉛筆』は、日本語に翻訳されることによって、当時、写真が、思考の実験装置であったことを再認識させてくれる。
本書においてトルボットが語るのは、彼が開発した「技術(アート)」(8)が、どれほどの利用可能性を持っているかである。図版IXに挙げられているのは、自身が所有していたリチャード2世の法令集の1ページの「密着焼付(スーパーポジション)」による「写し(ファクシミリ)」(37)である。トルボットは、これを「〈古物蒐集家〉に大きな利便をもたらす」というように予測しているが、170年後の私たちは、その技術が1950年にはフラットベッドの複写機に、そして1980年代にはイメージ・スキャナという形態を採り、その恩恵を受けるのは古物蒐集家にとどまらなかったことを知っている。まるで昔のSF小説を読んでいるようであるが、1840年代にその可能性がすでに思索(スペキュレート)されていたことは驚きである。かつてニュー・ウェイヴのSF作家たちが、SFを「サイエンス・フィクション(科学的虚構)」ではなく「スペキュレーティヴ・フィクション(思索的虚構)」と読み替えていたことを思い出す。
さて、図版印刷のクオリティの高さについても特筆するべきである。19世紀の写真技法に精通するトルボット研究者で、フォックス・トルボット・ミュージアム元館長マイケル・グレイの監修によるものであり、これまで鈍いセピアの図版で見慣れてきた24枚の歴史的な写真が、まったく異なる光を得て再現=再生されている。トルボット自身が誇らしげに「実物見本(スペシメン)」と紹介する写真プリント──原書ではページに貼り付けられていた──が、当時どのようなものであったのかを彷彿とさせる印刷である。彼は、写真術の可能性のひとつとして「画像(ピクチャー)に多くの微小なディテールを盛り込むことが可能になる」(38)と語るが、その文が付された《積み藁》(図版X)の図版を見ると、梯子のテクスチャー、積み藁に落ちるその影の鮮鋭さ、眼に刺さりそうな微細な藁など、この画像にこれまでは実感されなかった「微小なディテール」がどれほど豊富に含まれているのかを、眼によってまさに〈体感〉できるのである。
さらに、編訳著者が「共謀者」と呼ぶ造本設計・デザインの大西正一とともに仕掛けた造本の工夫も見過ごすことはできない。公式の表紙には、タイトル、著者、訳者の名前が記され、左開きで白い紙に印刷された「自然の鉛筆」の図版付き全訳、およびグレイによる詳細な図版解説を読み進めることができる。ところが一般的に裏表紙と見なされるところに記されているのは、「自然・芸術・写真──「自然の鉛筆」考」という別のタイトルと、青山、グレイ、トルボット、さらに畠山直哉、金井直、ジュゼッペ・ペノーネによる論題であって、そこから読者は右開きで灰色の上に縦書き表記で印刷された「自然の鉛筆」から発した、あるいはそれに関わる諸思考に触れることができる。縦書き表記と横書き表記が混在するという厄介な書記言語の特性を活かして一冊の本に二冊の書物が合体させられている──青山は「ダブルA面」と呼んでいる(91)──のである。
このような仕掛けによって、1840年代に世に出された一冊の書物は、2016年に通常の翻訳書を超えた新たな書物として私たちの手許に届けられた。19世紀に『自然の鉛筆』が持っていたアクチュアリティは、また別のかたちのアクチュアリティをまとって、私たちの眼前に提示される。170年余の隔たりは、大きいものなのか、それとも歴史から見れば些細な差異にすぎないのか? そういう思索に耽るのも、本書がもたらしてくれる「幸せ」のひとつだろう。(佐藤守弘)