新刊紹介 | 単著 | 『脱原発の哲学』 |
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佐藤嘉幸、田口卓臣(著)
『脱原発の哲学』
人文書院、2016年2月
テクストを集め、徹底的に読み込むこと。これが本書を貫く思考展開のスタイルである。この場合のテクストとは、原子力発電という技術をめぐる相反する立場の証言であり、この技術を生みだすことになった「起源」における証言である。つまり本書は原発をめぐる多様な証言=テクストを集め、その読解を実演してみせるスタイルで書かれた哲学書である。
本書は四つの大きな観点に基づいて証言を集め、読解している。すなわち、原発と核兵器の「等価性」(第一部)、原発を日本の国策として支えてきた「イデオロギー」(第二部)、中央集権的傾向を持つ国策が成立させた国内の「構造的差別」(第三部)、そしてフクシマがその中に位置づけられる公害問題の「系譜」である(第四部)。四観点を貫くのが、第一部で提示される、原発事故はアポカリプスであるという哲学者ギュンター・アンダースから継承した問題意識である。
原発事故は、多様な要因の複雑な相互連鎖によって引き起こされ、そのプロセスは、事故の破壊力と同様に、「想像力」(カント)という人間の能力を凌駕し、「自由意志の彼岸」にある。そして事故の破壊力は戦争のそれとのみ比較しうる。本書によれば、それは原発という技術が核兵器の原理に基づき、その生産技術を使って生みだされたことに由来する。原発は兵器に「転用」しうるという潜在性を本質的に備えているのである。隠れたところからやがて人の目に明らかになり、戦争と同等の破壊力を持つという点で、原発事故はまさにアポカリプスである。
本書の射程を広げているのは、その系譜学的方法である。アポカリプス的リスクを持つ原発の存在をつねに支えてきたイデオロギー(アルチュセール)を問題化することによって、本書はこのイデオロギーの「起源」へと遡る。それは日本近代化の二大支柱である「富国強兵」と「殖産興業」であるが、起源への遡及によって、足尾銅山公害を筆頭とする公害問題の系譜に、フクシマをめぐる多様な証言を位置づけることができ、また反対に過去の様々な公害をめぐる無数の証言をフクシマとの関係において呼び集め、読解することを可能にしてもいるのである。こうして本書は、フクシマを核としつつも同時に近代化以来の日本の歩み方にラディカルな問いと批判を突きつけている。まず本書に示されている論点をしっかりとおさえ、実践されている証言読解を参照しつつさらに掘り下げてゆくこと。これが本書以降の脱原発をめぐる哲学的思考には求められるだろう。その意味で、本書は脱原発の哲学の古典と見なすことができる。(飯田賢穂)