新刊紹介 | 単著 | 『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』 |
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乗松亨平(著)
『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』
講談社、2015年12月
本書は、ロシアの現代思想を、「第二世界性=私はXにとっての他者である」という彼らの自己認識から読み解いたものである。
日本と同じくロシアにおいても西洋近代は輸入物であり、知識人たちは、それがロシアに根付かないこと、仮に根付いたとしてもそれは借り物でできたハリボテに過ぎず、その底流には常に空虚が横たわっていると感じてきた。母なる「ロシア」に直面したインテリゲンチャのアイロニーや絶望はロシア文学に通じたものには馴染み深いものだが、こうしたアイロニーは同時に、無であるからこそ無限に多様で豊かな土壌としてのロシアという肯定的な自己認識も生み出してきた。
こうした逆説的なナショナル・アイデンティティーは、ソビエト時代にも形を変えて継承された。ソビエト政権は、自らを資本主義、ブルジョア的権力に対する他者として規定した。しかし、ロシア・マルクス主義の階級的敵対性に基づいた政治的言葉には、しばしば、西洋との対立という地理的想像力も紛れ込んだ。
さらに興味深いのは、こうした対抗的な自己認識が、国内における批判的言説を、単なる強権とは別の形で封じ込めてしまったという点である。この対立の物語は、後に硬直化し、それ自体権威と化したソビエト政権に抵抗する知識人たちにも共有された。彼らはソビエト政権と同じく自らを権力に対する他者として規定したのだ。しかしそのことによって彼らは、抵抗の言葉と権力の言葉が一致してしまうという事態に直面することになった。対抗の物語が、まさに対抗をあらかじめ流産してしまうような土壌を形成してしまったのだ。
本書の大きな洞察は、いわゆる旧共産圏を意味する「第二世界」の定義を拡張することによって、このような複雑な状況に置かれたロシアの思想を読み解くためのパースペクティヴを提供したことにある。著者はロシアの思想家や文学者たちに歴史を超えて取り憑き続けてきた「大きな物語」の存在を指摘し、それを「私はXにとっての他者である」と定式化する。Xは「西洋」であり、また「権力」でもある。この両者を通底させ、アイデンティティへと昇華するマトリックスとして機能しているのがロシアであり「第二世界の物語」なのである。
本書では、まず第一章において第二世界の物語が定式化された後、第二章ではタルトゥ学派の泰斗、ユーリー・ロトマンの思想が取り上げられ、彼の記号論が、規範への従属を強いられるソビエト社会における逆説的な主体形成を目指したものであることが論じられる。続いて第三章で論じられるのは、ボリス・グロイスやミハイル・エプシュテイン、マルク・リポヴェツキー等が展開したロシアのポストモダン思想である。彼らはソビエト社会を、実質を欠いた記号的シミュラークルとみなし、ソビエト社会を批判的に論じた。第四章では、第二世界の物語を自覚的に脱出する試みとして、デリダやドゥルーズを積極的に吸収し、「身体」に記号的全体性への抵抗を見出そうとしたミハイル・ヤンポリスキーやヴァレリー・ポドロガなど「余白の哲学」の思想家たちが論じられ、第五章では、プーチンが第二世界性を全面に押し出す中、ジノヴィエフ的な「無為の共同体」や否定性の内化に可能性を見出すオレグ・アロンソンやエレーナ・ペトロフスカヤ、アルテミー・マグーンやイリーナ・ジェレプキナといった最新の思想が紹介されている。
こうした概観によって明らかになるのは、この時代もアプローチも異なる思想家たちの間で、共通して第二世界の物語が根強く回帰しているという点である。ロトマンにおける「生」やママルダシヴィリの「身体」、エプシュテインの「無としてのロシア」など、記号論やポストモダン哲学が批判的に導入される過程で、しばしば記号の外の「実体」が必要とされ、そこに西洋ならざるものとしての「ロシア」が根強く顔を覗かせるのである。
もちろん著者は、ロシアの思想家たちが、一も二もなくそうした物語の奴隷となっていたなどと乱暴な議論を展開しているわけではない。著者はバーリンの「積極的自由」と「消極的自由」を引き合いに出し、第二世界の物語は消極的自由以上のものではないと指摘している。それは、常に敵を必要としてしまう、依存的な思考であらざるを得ないのである。
しかし、このことは、ロシアの思想家たちにも自覚されていた。確かに第二世界としてのロシアが実体として回帰してくるのは、消極的自由を積極的自由に転じようとするまさにその瞬間なのだ。しかし著者は、そうした回帰の瞬間を逃さず指摘しつつも、ロトマンの翻訳としての「文化」から余白の哲学の西洋とはまた異なった「身体」、現代の若手思想家たちの「無為」への着目と、細い抵抗の線を粘り強くたどっていく。むしろ著者が焦点を当てているのは、ロシアにおける第二世界の物語の根深さであると同時に、この現代ロシア思想の宿跡でも言うべき物語を乗り越えるための、思想家たちの薄氷を踏むような努力なのだ。
本書から、何にでも使える最新の流行が直ちに手に入るわけではない。しかしこうした作業から浮かび上がってくるのは、ロシアの現代思想の、日本のそれとの差異と類似性である。著者は、さまざまな局面で、ロシアの現代思想を日本のポストモダン状況と比較している。実際、秘教的言語を通じてアカデミズムの外部に親密圏的な共同体を形成したロトマンは、蓮實重彦や柄谷行人が後進に及ぼした絶大な影響を思い起こさせるし、またジャック・デリダに対してロシアにおける脱構築の機能不全と近代の必要性を主張するミハイル・ルイクリンには、批評空間以降の浅田彰を重ねあわせずにはおけない。そして若手思想家たちによる無為への着目は、小泉政権下における「だめ連」以来の新しい社会運動(の模索)との並行性を、容易に見て取ることができる。ここにあるのは、同じポストモダンを受容した異なった現在、可能態であると同時に現実に生きられてもいる、「もう一つの現在」なのである。
この「もう一つの現在」は、私たち自身が陥りがちな第二世界の物語を相対化する、解毒剤として機能しうるだろう。そして同時に、こうした複数の現在の比較検討=モンタージュから生まれる地政学的な想像力は、逆に西洋思想を普遍という試練にかけるだろう。こうした作業が成就した時、この複数の「現在」は、何らかの未来を生み出すことができるかもしれない。もちろん、これはほとんど妄想にすぎないような発想だが、しかし少なくとも言えるのは、第二世界性とは私達にとって──その数字が連想させる対立性とは裏腹に──二元論的悪循環から脱し、批評的視座を得るための「第三項」として機能し得る、ということなのである。(畠山宗明)