新刊紹介 単著 『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』

沼野充義(著)
『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』
講談社、2016年1月

貧乏人は蓮實の真似をするなという浅田彰の言葉はいまだに語り草になっていて、蓮實重彥の模倣が猖獗を極めた時代の証言となっているが、ロシア文学界隈で似た現象を探すとすれば、(規模も性質もだいぶ違うが)「謎とき」スタイルの追随者を多数産み出した江川卓だろうか。こちらも、本来であれば安易に真似などしてはいけない芸当だったはずだが、実力と強引さをそなえた亀山郁夫のような人がいて、いまだに江川流の「謎とき」の魅力と危険を伝えてくれる。

沼野充義はどうか。狭いフランス文学やロシア文学の枠を越えた影響の大きさという点では前の二人にさして引けをとらないはずだが、どうしたものかこちらでは、蓮實や江川と違って、沼野の真似をしようとした者の例を知らない。私たちの身の回りに沼野エピゴーネンは見当たらないようなのである。それはなぜか。

本書『チェーホフ』を繙けば、その理由は明らかだろう。真似できっこないのである。あるいは、真似しようとしたところで、とても敵わないことがたちどころに明白になってしまい、あらかじめ意気消沈してしまうような代物なのだ。奇を衒ったところはまるでない。テクストをきっちり読み(本書は『新訳 チェーホフ短編集』集英社、2010年の副産物という面も持っている)、膨大な先行研究を押さえ(本書巻末の参考文献表はネタの宝庫だ)、はったりも、韜晦も、逃げもない文体で(表象文化論の周辺では例外的な資質)、刺激的で魅力的な作家の姿を描きだす。例えば(本書第6章「小さな動物園」)、チェーホフの妻宛ての手紙の呼びかけに、やたら動物の名が使われていることに気づき、そこに出てくる動物たちのリストを作ってみる(「僕の可愛い虫けらちゃん」「可愛いワニ君」「僕の可愛い人、ゴキブリ君」「ドイツのお馬さん」「僕の可愛いマッコウクジラ君」……!)。まるで動物園だ、というので、モスクワでは1864年に、ペテルブルクでは1865年に開園したロシアの動物園の歴史を調べてみる(ドストエフスキーの忘れられた短編『鰐』にもさりげなく触れられる)。チェーホフに当時の動物園を批判した珍しい文章があることをつきとめ、その内容を紹介する(しかし、そこで引用されている動物園の「日誌」の可笑しいこと! まさしくチェーホフ的ともいうべき荒唐無稽さに、思わず吹き出してしまう)。そこからヴェリミール・フレーブニコフとヴィクトル・シクロフスキーの動物園へと話を進め、チェーホフ‐フレーブニコフ‐シクロフスキーと受け継がれた20世紀アヴァンギャルドの「動物園的知」の系譜を示唆する……ごく素直な手法で、伝統的な文学研究から逸脱するものとは思えないのに、これだけの面白さだ。こんなものをさらりと一章で書き切ってしまう実力をもった人間が、いったいどこにいるだろう?

沼野充義を読んでも真似したくはならない。本書を読み終え、あとがきの「自分なりの発見や解釈も多少は盛り込むことができたが、研究史上大きな意味があるなどと自負するつもりはない」(351頁)という装われたものではない謙虚さに絶句したあとで、私たちに残されているのは、沼野とは違ったふうに書きたいと願うことだけだ。例えば、沼野は「この世に文学研究ほど大事なものはない」というアレクサンドル・チュダコフの言葉を引く(352頁)。ならば、この世に文学研究ほど大事なものはないとは信じないで文学研究をしてみたら、どうか? (番場俊)

沼野充義(著)『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』講談社、2016年1月