新刊紹介 単著 『科学思想史の哲学』

金森修(著)
『科学思想史の哲学』
岩波書店、2015年11月

本書「あとがき」で著者・金森修氏は、本書、2004年刊行の『科学的思考の考古学』(人文書院)、そして2015年9月刊行の『知識の政治学―〈真理の生産〉はいかにして行われるか』 (せりか書房。同書については『REPRE』26号で奥村大介氏が紹介している)の三冊が、氏の科学論の主著であると記している。そのなかでも、二か月の間をおき、連続して刊行された本書と『知識の政治学』とは、対をなす存在として企図されたものと理解できる(それは、発行所の境を越えて揃えられた二書の装丁によって表現されている)。さらに、ここにやはり同じ2015年に出版された『科学の危機』(集英社新書)を加えれば、読者は、本書で著者が「私なりのスタイル」を以て続けたものだと述べる科学思想史研究の長い歩みを、あらためて見渡すことになると思う。

本書においては、その著者の思考の歩みを貫く、大きな二筋の流れを辿ることができる。まず一方には、フランス・エピステモロジーの系譜の精力的な紹介者であるとともに、その系譜が示す認識論の視座に基づく科学史的研究、とりわけバシュラール的化学史研究とカンギレム的生物学史研究の実践者として、著者が〈科学思想史〉という学問領域の根底的な問い直し・その再定立へと向かってゆく道筋がある(この時期の著者の模索が、2010年から2013年の間に相次いで出版された〈科学思想史〉を題名(副題)に含む、四冊の大部の編著を生んでいることも思い出しておきたい)。この思考の足跡は、特に本書では第一部と第二部に読むことができ、また同時に、そこから冒頭の『科学的思考の考古学』の再読へと、読者を誘うものでもあるだろう。そして他方では、これは著者の仕事全体の通奏低音であって、かつ、2011年3月11日の東日本大震災および福島第一原発の破綻以降、はっきりと前面へ呈示されることとなるのだが、著者をしてフーコーの──特にその『監獄の誕生』の──議論に接近させる、「真理」の周辺に発生する政治学へと注がれつづける眼差しというものがある。言うまでもなく、上に述べた『知識の政治学』は、この眼差しこそが主題となって展開されている書物であろう。そうだとすれば、本書とは「なぜその眼差しのためには歴史的な認識論研究が必要であるのか」を、あらゆる角度から、またごく細部にいたるまで、説明する本であると言えるだろう。

著者は、「科学思想史研究」とは「必然的に領域横断的、というよりもむしろ領域破壊的な作業」なのだと書いている。私たちは通常、そのようなものとして科学思想史を捉えているだろうか。フーコーがカンギレムの仕事の「逆説性」を評して記した、「科学史のある特定の領域に注意深く身を投じている」という言葉が思い出される。ならば、なぜその「特定の領域」に、そのとき彼らは「注意深く」身を潜らせていかねばならなかったのか。『知識の政治学』の「あとがき」で述べられている「辺縁地帯の哲学者」という控えめな自認とともに、本書において〈科学思想史〉には「後一歩がなければ」ならないのだという断言がなされるまで、ここに示された思索の展開は、そのような「なぜ」に一つの応答を与えてくれるものだ。本書では〈哲学〉が鮮明に自らを語り、自らを問い続けている。(田中祐理子)

金森修(著)『科学思想史の哲学』岩波書店、2015年11月