新刊紹介 単著 『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』

沖本幸子(著)
『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』
吉川弘文館、2016年2月

地方の芸能を見に行くと、「微妙なもの」に出会うことがある。何が楽しいのか正直わからない、だいいち演じている当人たちも、受け継がれてきたもののよさがわかっていないふうではないか…。そうした時にしばしば耳にする説明の一つが、芸能はもともとはある種の「儀式」の一環である、楽しいかどうか・美しいかどうかで発想されたわけではないのだから、そのような批判は的外れである、というものである。

確かに、そうも言えるのかも知れない。だが、どうだろう。少なくとも本書で取り上げられる中世の流行芸能「乱舞」に関する限り、人々はほんとうに純粋に楽しみを求めて声を発し、足をあげ、拍子を踏み、それらが生み出す音の響きと身体の感興に思うまま身をゆだねていたらしい。一例を挙げれば、後鳥羽院は熊野参詣に舞の名人を同道させ、行く先々で芸能を楽しんだという。荘重たるべき参詣の場に…と周囲が諫めるかと思いのほか、人々も演舞の見事さに「腸が断ち切れるくらい大笑い」したというから驚きだ。

もちろん、そこで感じられる「楽しさ」「美しさ」は、現代の我々が感じるそれと必ずしも同質ではあるまい。芸能がどのように受けとめられていたか真に明らかにするためには、そこで何が行われていたのか、それがいかなる種類の心理的機制にどのような形で働きかけたのかということに、細心の注意を向ける必要がある。幅広く・丹念に諸資料にあたり、「乱舞」の諸相と展開を浮き彫りにする本書は、そのような「感性の考古学」の最新・最良の成果である。

著者が言うように、「乱拍子の呪術性」に触れなかったことは本書の瑕疵なのかも知れない。だが、むしろそれがよかったのではないか。「呪術」は芸能において確かに本質的な役割を担うだろうが、本書の場合、敢えてそれをカッコに入れることで見えることが多かったように思う。さらに想像をたくましくすれば、「呪術」というのもおそらく、「エンタメ」を迂回することではなく、それを突き抜けていくことで初めて見通される、そのようなものであるのかも知れない。

本書を読みながら、あちこちの芸能を思い起こしては、いろいろなことを夢想した。著者がこの先にさらにどんな世界を切り開いて見せてくれるのか、今から楽しみである。芸能研究が俄然面白くなってきた。(玉村恭)

沖本幸子(著)『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』吉川弘文館、2016年2月