第9回研究発表集会報告 | シンポジウム:ゴジラ再考 |
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2014年11月8日(土) 17:00-18:30
新潟大学五十嵐キャンパス 総合教育研究棟 F275教室
シンポジウム:ゴジラ再考
猪俣賢司(新潟大学)
林田新(京都市立芸術大学)
ミツヨ・ワダ・マルシアーノ(カナダ、カールトン大学)
【司会】石田美紀(新潟大学)
1954年にスクリーンにその異形の姿を現し東京を襲ったゴジラも今年で還暦を迎える。ゴジラは60年もの歴史を持つ一方で、ハリウッド版最新作『GODZILLA──ゴジラ』が公開されたり、2011年以降、震災や原発事故との関係から頻繁に言及されたりと、今日でもアクチュアルな存在であり続けていると言って良いだろう。こうした歴史的な蓄積をもつゴジラにゴジラ研究はいかに対峙することができるのだろうか。シンポジウム「ゴジラ再考」では、ゴジラをめぐって三者三様の議論が展開された。
最初に登壇した猪俣賢司の発表は、1954年に東京に上陸したゴジラの足跡を、品川、銀座、隅田川を中心に辿り、そこの潜む精神史を紐解くというものであった。当時はまだ存在していた品川第二台場に姿を現したゴジラは、映画公開当時、第五福竜丸が停泊していた東京水産大学を横目に、品川運河を渡っていく。その後、新橋を経て、『稲妻』や『東京物語』の「はとバス」のように、銀座を「名所見物」、「銀ブラ」したゴジラは上野、浅草を回り、芝木好子の小説『隅田川暮色』が鎮魂の川として描く隅田川を下っていく。『ゴジラ』は、映画『第五福竜丸』と同様に船上での追悼、海を写したショットで終わる。『ゴジラ』は、やはり「南洋」からの「帰郷」を描いた映画『浮雲』と同様、帰りたかった祖国、しかし、帰ることのできなかった祖国を描き出しているのである。また、猪俣は、作中で尾形秀人と山根恭平博士が交わしていた、ゴジラは「水爆そのもの」(尾形)なのか「生命」なのかという問いにも言及していた。この問に対する猪俣の主張は、ゴジラは「生命」である、というものであった。
しかし、必ずしもゴジラは「生命」として語られてきたわけではない。林田新の発表は、まさに、ゴジラはどのように語られてきたのか、という問いから出発するものであった。公開当時、ゴジラは「性格がない」と批判的に論じられていたものの、90年代以降になるとゴジラは東京大空襲や日本兵の亡霊というように戦争との関連において、さらに、2011年の震災以後はもっぱら原発や核エネルギーとの関連において論じられるようになる。林田は、こうした語りの妥当性を議論するのではなく、ゴジラが過去を様々に語るための豊かな記憶装置として機能している点を強調した。そのうえで林田は初代『ゴジラ』の作品分析を行い、本作においてゴジラが姿と音(足音)が一致しない、かつ全体像を把握することが困難な断片的な身体として描写されていることを指摘し、ゴジラがこうした不気味な抽象性を備えた存在として描写されていることこそが、多くの論者をして様々な記憶を語らしむる要因になっていると主張した。
最後に登壇したミツヨ・ワダ・マルシアーノが主張したのは、金と法というリアリポリティクスに目を向ける必要性である。1998年公開の『GODZILLA』と2014年公開の『GODZILLA』という、二つのハリウッド版ゴジラの比較を通じてワダ・マルシアーノは、両者が日本のコンテンツであったゴジラをグローバルな文脈──正しくはハリウッドというローカルに基づいたグローバル──へと押し広げたという共通点を持つ一方で、版権や著作権、出資元という観点から見ると両者は全く別の商品であるということを明らかにした。ゴジラをめぐる裁判事例などにも言及しながらワダ・マルシアーノが強調したのは、制作会社はゴジラ研究が論じてきたような精神史や思想・哲学ではなく、興行成績や関連商品による収益を重視してきたのであり、映画産業のグローバル化にともないますます増大するこうしたリアル・ポリティクスが私たちの観賞経験や美学にも少なくない影響を与えているという点である。
三者三様の発表に続く質疑応答において論点となったのは、ひとつはキャラクターとしてのゴジラである。ビジネスという観点から見た場合、ハリウッド版を含む全30作品のゴジラ映画は確かに人つながりの作品ではなくそれぞれ単独の商品であるし、ゴジラファンもまたそれぞれ独立したものとして楽しんでいる傾向がある。しかし、作品ごとに分別しようとする欲望の一方で、ゴジラを単一のキャラクターとして捉えようとする欲望があることも確かなのである。キャラクターとしてのゴジラをめぐり、日本と海外におけるキャラクター商品の差異、映画の版権とキャラクター権の違いが議論された。他にも、日本の『ゴジラ』映画、着ぐるみ文化が海外でどのように見られてきたのか、2014年の『GODZILLA』をどのように評価するのか、メディア・ミックスという観点から見た際のゴジラ映画とゴジラ・グッズとの関連など様々な論点が提示された。こうした論点について必ずしも十分に議論が展開されたわけではない。しかし、従来のゴジラ研究を新たな地平へと切り開いていく視座がいくつも提示されたのは大きな収穫であったといえるだろう。
林田新(京都市立芸術大学)
【パネル概要】
最新作『GODZILLA—ゴジラ』も公開され、誕生60年が盛大に祝われている怪獣の今日的意味を探る。 1954年にスクリーンに現れ、東京を襲った怪獣は、第二次大戦の犠牲者の怨霊であり、 同年3月に起きた第五福竜丸事件に対する痛烈な批判であった。2011年の東日本大震災と福島原発事故を経た今、ゴジラはいかなる姿で私たちの目の前に現れるのか。戦後の視覚文化におけるゴジラの位置を多様な角度から読み解きながら、日本の来し方行く末を考える。