第9回研究発表集会報告 研究発表4

第9回研究発表集会報告:研究発表4|報告:田中純(東京大学)

2014年11月8日(土) 12:00-14:00
新潟大学五十嵐キャンパス 総合教育研究棟 F272教室

研究発表4

総合芸術とアジテーションのはざまに──ロシア十月革命後の記念碑論争
江村公(同志社大学)

フレデリック・キースラー《ブケパロス》──洞窟的展示空間
瀧上華(東京大学)

ベルギーの「象徴」としてのルネ・マグリット──第二次世界大戦後におけるマグリットの展覧会とベルギー教育庁の芸術政策の連関について
利根川由奈(日本学術振興会)

【司会】田中純(東京大学)

江村公氏の発表は、ロシア革命直後における記念碑をめぐる議論や実践を通して、この「革命」という運動を「記念碑」として残そうとする営みそのものが孕んでいた矛盾を浮かび上がらせるものであった。江村氏はまず、レーニンの発案によるとされ、1918年のルナチャルスキイの論文で明示された「モニュメンタル・アジテーション」の概念に着目する。そこではモニュメントの永遠性や永続性ではなく、むしろ、一時的であってもプロパガンダの舞台となるようなアジテーションの啓蒙的機能が重視された。この発想は1920年代における記念碑の構想にまで影響を及ぼすことになる。こうした一時的な性格は、革命後の一年間に実際に建造されたロベスピエール像などの人物像や広場の装飾が経験しなければならなかった現実であり、それらはロシアの厳寒に耐えきれずに瓦解して現存しない。理論面において、カンディンスキーは記念碑を「総合芸術」ととらえ、人間に対する総合的な心理的影響力を実証することまで目論み、他方、タトリンによる《第3インターナショナル記念塔》はユートピア的テクノロジーによる可動式の一種の「船」として、これもまたあらたな総合芸術を体現していた。こうした動向のなかで、江村氏が注目するのが、モスクワの「カフェ・ピトレスク」をはじめとする「アジテーション・カフェ」が有した独特な記念碑性である。これらのカフェは可動式のインテリアからなり、運動する光や色彩によって空間を演出して、分野を越えた芸術家たちの交流の場所となっていた。それらもまたかりそめの祝祭的な場所にとどまるしかなかったが、この小さな記念碑性を秘めた空間の経験に、江村氏はカンディンスキーやタトリンに通じる総合芸術作品的な要素を認めている。そこで示唆されているのは、一時性という束の間の時間こそ、革命後の記念碑を象徴する原理であったという事態なのである。

瀧上華氏が考察の対象としたのは、キースラー最晩年の《ブケパロス》と名づけられた巨大な馬のかたちをした彫刻である。その背中側には人がくぐれるほどの穴が開いており、そこから中に入り込んで壁を光で照らすと、内側の壁に施されたレリーフ状のペガサスや男女のケンタウロスのイメージが浮かび上がる。瀧上氏はこの作品のドローイングをもとに、死と再生についての神話的世界観をそこに読み取る。さらに、暗く狭い内部空間に入るという特殊な鑑賞体験を分析するために、瀧上氏はキースラーが全生涯にわたって、劇場建築や映画館、展示空間などのいわば「鑑賞装置」を多数手がけていたことに着目する。そこに共通する特徴は、作品・空間・鑑賞者の関係を組織して、それらを一体化させることだった。その延長線上に、理想的な鑑賞装置としての「洞窟的展示空間」が位置する。《ブケパロス》とはまさにそうした洞窟的な鑑賞装置にほかならない。しかし、この作品/展示空間においては、キースラー自身こそが鑑賞者として想定されていた。ここでは制作者と鑑賞者が一致しており、キースラーにとって、その制作過程は自らの身体を通したひとつの世界の把握と構築であった、と瀧上氏は指摘する。その点でこの作品は彼の「コルリアリズム」の建築論に通底するとともに、作者自身の死と再生のための場でもあったのである。

利根川由奈氏は、1950年以降にルネ・マグリットがベルギー美術の「正当なる後継者」とされ、「国家の象徴」となった理由を問うた。そこでまず検討されるのは、1954年のヴェネツィア・ビエンナーレにおいて、ベルギー館のコミッショナーを務めたエミール・ランギがヒエロニムス・ボスとマグリットを「幻想性」というキーワードで関連づけた点である。ここで言う「幻想性」は完全な想像上の世界ではなく、現実に基盤を置いた「別の世界」を意味する。利根川氏は、マグリットを16世紀フランドル美術の後継者と見なすこうした見方の素地を、1936年のニューヨーク近代美術館における「幻想美術、ダダ、シュルレアリスム」展や、さらに遡って1920年代のブリュッセルにおけるギャラリー「レポック」や雑誌「ヴァリエテ」における批評家ヴァン・エッケのマグリット評価に認める。このような背景のもと、1954年においてマグリットはあくまで「フランドル美術」の「正当なる後継者」や「象徴」であったことが明らかにされる。その点で彼は、フランドルとワロンというベルギー内の二地域の文化的差異を示し、ひいては2つの文化の分裂状態を顕在化させる存在でもあった。利根川氏は結論部でさらに、地域対立が深まった1950年代末以降、ベルギーが国家としての統一的な文化活動を行なうことがなくなった時代にあってなお、マグリットが「コンセプチュアル・アートやネオダダの祖」として米国向けの対外政策で利用された経緯に触れ、この芸術家をめぐる、いわば地政学的な構図の存続と変容の両面を浮き彫りにした。

質疑では、江村氏が明らかにした革命直後の記念碑における一時性をめぐって、そこに体現されているものは、革命国家が担った絶えず運動状態にある「現在性」と過去を記録すべき記念碑の性格との相克ではないか、という指摘があった。さらに、この一時性をあくまで、さまざまな「小さな記念碑」の実践が可能だったソ連邦初期の短期間の性格ととらえるべきか、それとも、モダニティ一般の特徴である一時性と結びつけて考えるべきかに関しても議論がなされた。この論点に関連しては、一時的ではかない「記念碑」と「スペクタクル」とをどう区別するのか、という点も問われた。

瀧上氏に対しては、キースラーが建造した、スクリーンが眼の形状をした映画館の実際の鑑賞経験が問われたが、具体的にどのような作品が上映されたかの情報が乏しく、そうしたソフト面での内実は定かでないとの回答がなされた。この映画館での映画鑑賞は、「スクリーンが観客を見ている」という、非常に無気味な経験でありえたであろうことも指摘された。また、きわめてプライヴェイトな《ブケパロス》に対してパブリックな映画館や展示空間との性格の違いをめぐっては、《ブケパロス》も他者による鑑賞を意図していたことがうかがえるとともに、たしかにこうした対照性は存在するものの、映画館や展示空間においても、キースラーは集団ではなく、個人と作品との関係性を問題にする傾向があり、鑑賞装置への関心としては通底しているとの応答がなされた。

利根川氏によって明らかにされた、マグリットがベルギー美術のアイデンティティ構築に活用されてきた経緯については、彼が一般にはフランスが本場とされるシュルレアリストであった点をどのように処理しているのか、という質問がなされた。利根川氏はこれに対して、マグリットを含むブリュッセルのシュルレアリストたちは、アンドレ・ブルトンによるオートマティスムや無意識による創造の理論には反対の立場であり、マグリット自身、1948年にはブルトンから破門宣告を受けるなど、パリのシュルレアリスムに距離を置いていた点を指摘した。また、マグリットがベルギー美術の国家的象徴とされる状況が現在もなお存在し、地域的な文化対立も深刻さを増しているという経緯も紹介された。

江村氏と利根川氏の発表がともに、革命国家の記念碑であったり、伝統の後継者としての国家の象徴であったりといった、国家や共同体のレベルにおける政治と美術の関係性を問うものであるのに対して、瀧上氏が対象とした《ブケパロス》は、作者自身の生に密着した、きわめて個人的な作品である。だが、ロシア革命直後の記念碑が束の間の「小さな記念碑」という独自なあり方で、もはや存在しないまま「死後の生」を得ているとすれば、それは徹底してプライヴェイトな《ブケパロス》における死と再生の神話的世界にもどこかで通じているのではあるまいか。また、ロシアやベルギーといった地域や場所と結びついた政治と美術の関係に対して、オーストリアから米国に渡ったユダヤ人キースラーが作り上げようとした、それ自体として「エンドレス」で完結した環境空間は、移住者だからこそ構想しえた総合芸術作品であり、既存の国境を知らない一種の「船」(宇宙船のような)として、革命の国家的記念碑やベルギーの国家的象徴としての美術とは鋭いコントラストをなしているようにも見える。こうした意味で、この研究発表に集った三者の発表は期せずして、それぞれの問題設定の境界を際立たせるべく、相互に照射し合うものであったのではないかと思われる。

田中純(東京大学)

【発表概要】

総合芸術とアジテーションのはざまに──ロシア十月革命後の記念碑論争
江村公(同志社大学)

本発表の目的は、ロシア十月革命を記念するモニュメントに関する当時の議論を踏まえ、戦時共産主義からネップという移行の時期の、記念碑の概念を再考するものである。帝政時代の都市の様相を変容させるだけでなく、その記憶をも書き換えるための手段として、記念碑は大きな役割を担うことになった。
教育人民委員部は設立当初から革命を記念するための行事やモニュメント建設の実務的な議論を行っていた。一方、1919年に発表された記念碑的建築制作に関するコンペの告知が、構成主義者たちの創造に大きな影響を与えたといわれる。
公的な文書においても、過去の出来事を記念する方法に関して、さまざまな意見が交わされたことがわかるが、その錯綜した議論の多様性を明らかにするために、まず、モスクワの芸術文化研究所が、カンディンスキイの指導の下に記念碑芸術部門をその母体として設立されたことに着目し、彼の記念碑的芸術についての言説を考察する。なお、記念碑プロジェクトの例としては、タトリンの《第三インターナショナル記念塔》がよく知られているが、この計画と模型は、カンディンスキイ的な記念碑概念と構成主義におけるそれとの、狭間に位置づけられることを明確にしたい。くわえて、この時期の記念碑概念をめぐる議論と構想が1920年代初頭の建築とはいえないような、多数のインスタレーション作品の計画を生み出すことになったことも示唆する。

フレデリック・キースラー《ブケパロス》──洞窟的展示空間
瀧上華(東京大学)

フレデリック・キースラー(1890-1965)は、その人生の最晩年に《ブケパロス》という作品を制作した。《ブケパロス》は巨大な馬の形をした彫刻であり、同時に内部に空間を持つ建築でもある。また、内側の壁にはレリーフ状のイメージが施されており、内部に入り身を横たえそれらを鑑賞することが想定されていた。本発表は、ドローイングや制作時に撮影された写真をもとに、《ブケパロス》について分析を加えるものである。その際、キースラーがこれまで手掛けた劇場、映画館、ギャラリーといった一連の展示や鑑賞のための空間の中に《ブケパロス》を位置づけることで、ひとつの鑑賞装置としての《ブケパロス》像を浮かび上がらせ、キースラーにとって《ブケパロス》がホワイト・キューブとしての展示空間と、ブラック・ボックスとしての劇場や映画館という両者を批判的に乗り越える存在であったことを示したい。また、《ブケパロス》において鑑賞者として設定されているのがキースラー自身であるという《ブケパロス》の私的な特徴に着目し、《ブケパロス》においては制作と鑑賞という行為が重なり合い、それゆえにキースラーにとってひとつの世界の把握と構築の方法として機能していたこと、そしてそれが、キースラーが追求してきた自らの建築理論全体に対して、重要な意味をもつことを明らかにする。

ベルギーの「象徴」としてのルネ・マグリット──第二次世界大戦後におけるマグリットの展覧会とベルギー教育庁の芸術政策の連関について
利根川由奈(日本学術振興会)

美術史家のミシェル・ドラゲは、1954年に行われた2つの展覧会によって、ルネ・マグリット(1898-1967)はベルギーの「象徴」となったと述べた。2つの展覧会とは、第27回ヴェネツィア・ビエンナーレのベルギー館の展示と、ブリュッセルのパレ・デ・ボザールにおけるマグリットの回顧展を指す。彼がこれらの展覧会をマグリットが象徴となった契機と見なした理由は、その独特なキュレーションのためである。たとえばヴェネツィア・ビエンナーレではヒエロニムス・ボスとマグリットを「幻想性」というキーワードでつなぎ、その「幻想性」をベルギー美術の特質であると強調した展示が行われた。上記の展覧会は当時ベルギーにおける芸術政策を担っていたベルギー教育庁の主導で行われていたため、マグリットは教育庁から、芸術政策を体現するための画家として要請されていたという可能性が浮かび上がる。戦後マグリットが教育庁の依頼で7点の公共事業を手掛けたことや、教育庁の下部機関であるベルギー・アメリカ美術協会が開催した「ベルギーの美術:1920-60」展(1960年、NY)でカタログの表紙にマグリットの絵画≪剽窃≫(1954年)が使用されたことからも、マグリットと教育庁の強固な関係性が窺えるだろう。したがって本論文は、上記の展覧会のキュレーションや展示作品の検討を通して、1950年~60年代における国内外のマグリットの展覧会と教育庁の芸術政策の関連の内実を明らかにすることを目的とする。