第9回研究発表集会報告 | 研究発表3 |
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2014年11月8日(土) 12:00-14:30
新潟大学五十嵐キャンパス 総合教育研究棟 F274教室
研究発表3
イメージの生成からアンフォルムな痕跡へ──バタイユのラスコー解釈の可能性
唄邦弘
合生的形象──ピカソ他《ラ・ガループの海水浴場》(1955)における物体化された思考プロセスの分析
平倉圭(横浜国立大学)
ステファン・フォン・ヒューネの知覚論──点と面、物質化を介在した知覚の拡散と集約
坂本泰宏(Max Planck Institute for Empirical Aesthetics)
贈与論による限界芸術の再考
大絵晃世(東京藝術大学)
【司会】門林岳史(関西大学)
研究発表3においては、洞窟絵画、ピカソ映画、経験美学、限界芸術といった多彩な領域の発表を通じて、イメージが生成する場所についての考察が試みられた。
唄邦弘は、バタイユのラスコー論を読解しながら、バタイユが洞窟絵画におけるイメージの生成という契機を重要視していることを確認した。バタイユによれば、洞窟絵画が呪術性を帯びるのは、完成された静的なイメージにおいてではなく、遊戯的な線描から動物の形象が立ち現れ、また、古い形象に新しい形象が重ね描きされていくイメージの「変質(altération)」という契機においてである。唄は、こうした洞窟絵画の性質を、アナモルフォーズやアンフォルムになぞらえた。
平倉圭は、『ミステリアス・ピカソ』最終部に登場する《ラ・ガループの海水浴場》の、二百数十ショットに分解されたイメージの生成と変容の過程を仔細に分析し、画家の意図には還元できないイメージの「拡張された思考」(アンディ・クラーク)が絵画の表面に定位していることを指摘した。さらに平倉は、ジョルジュ・オーリックによる音楽、アンリ・コルピによる編集の具体的な分析を通じて、この映画が、ピカソという作者の署名を付された絵画の生成のプロセスというよりはむしろ、複数の主体と技術の「異種混淆的集合体」(ブルーノ・ラトゥール)のなかで立ち上がる個体性を実現していることを指摘した。
坂本泰宏は、「上からの」知覚論(人文学的なイメージ研究)と「下からの」知覚論(神経美学)を架橋する理論的構築のための手がかりとして、ステファン・フォン・ヒューネの音響彫刻作品「テクスト・トーンズ」に潜在する知覚論を分析した。「テクスト・トーンズ」は、6つの音響彫刻を空間に配置した作品であるが、坂本は、ヒューネが遺した手稿を手がかりとして音響シュミレーションを作成し、この作品が空間のなかに生起させる共鳴によって、空間と知覚の界面において音とイメージの交叉を生み出していることを確認した。さらに坂本は、音とイメージの関係性を考察する作品群の系譜のなかに本作品を位置づけ、ヒューネが知覚表象と物理的空間の界面に見出す「皮膚」という領域の経験美学にとっての重要性を指摘した。
大絵晃世は、鶴見俊輔が提起した「限界芸術」概念の規定を、大衆芸術、アール・ブリュットなどの隣接概念との比較を通じて確認し、また、「里山の限界芸術」展、「ヤンキー人類学」展、「限界藝術大学文化祭」展といった近年の展示企画を紹介しながら、この概念による「芸術」という理念の拡張がはらむ問題点について考察した。大絵が具体的に提起したのは、例えば酒鬼薔薇事件のような殺人は芸術たりうるかという問いであり、この問いは、芸術の理念を道徳性の観点から再び限界づけることを要請している。この課題に答えるべく、大絵はマルセル・モースの贈与論を参照し、1)贈与性、2)現実の共有、3)メタファーの使用の三点による芸術の再規定を提案した。
質疑応答においては、主に以下二つの論点をめぐって意見が交換された。
1)各発表がそれぞれのかたちで拡張している芸術・美・イメージといった概念の規定がどのように関連し、交差し、また、反発しあっているか。とりわけ、呪術的な非日常性のうちに芸術が誕生する契機を見出すバタイユの芸術理解と、日常的な価値の共有に根ざした芸術の再定義を提案する大絵の立場のあいだの潜在的な対立をめぐって議論が交わされた。
2)平倉、坂本、大絵の各発表は、それぞれの領域において、すべてが一つのものに融合してしまうような全体化への傾向に対して、いかにして差異や固有性を確保しうるかが賭けとなっていたのではないか、との会場からの問題提起。それに対して唄からは、バタイユにおける無媒介的な直接性への志向のうちに、境界のうちにとどまり続ける要素を見出したいという発表の趣旨確認があった。また、各エージェントの独立性を確保するべくピカソが取っていた戦略についての平倉のコメントほか、各発表者からの応答があった。
門林岳史(関西大学)
【発表概要】
イメージの生成からアンフォルムな痕跡へ──バタイユのラスコー解釈の可能性
唄邦弘
1940年、フランス南西部でのラスコー洞窟壁画の発見は、その規模や保存状態の良さから、人類の起源、延いては人間そのものを記す重要な手がかりとなった。発見から程なくして、ジョルジュ・バタイユは『ラスコーあるいは芸術の誕生』(1955)と題された大型美術図版を出版する。
バタイユによれば、ラスコーは、動物とは異なる存在として人間が誕生したことを示しており、それは同様に、芸術=遊びという人間固有の行為が誕生したことをも意味していた。バタイユは、その人間の遊びとしてのイメージ誕生の瞬間を捉えようと試みている。
だが、その一方で彼は、このきわめて優れた状態で残された壁画イメージが、現在の理解を越えたもの、私たちの判断を停止させるものとして感情的に訴えかけてくることを強調する。洞窟内部では、さまざまなイメージが遍在しており、それらは見る人の動きによって変化していく。そのような変化と共鳴して立ち現れるイメージは、かつてのイメージの役割を終え、他のイメージと混ざり合いながら新たなイメージとして生まれる。実際、彼は、こうした洞窟内部のイメージの変容に驚きを覚えずにはいられなかったのである。
本発表の目的は、こうした一見矛盾するようなバタイユのラスコー論を分析することで彼のイメージ論を明らかにすることにある。またそれとともに過去の痕跡として残されたラスコーイメージが私たちにとって如何なる意味を持つのかを論じる。
合生的形象──ピカソ他《ラ・ガループの海水浴場》(1955)における物体化された思考プロセスの分析
平倉圭(横浜国立大学)
1955年夏、パブロ・ピカソはアンリ=ジョルジュ・クルーゾーらとともに自身の絵画制作過程を映画に記録した(『ミステリアス・ピカソ』、1956年公開)。1950年代に映画あるいは公衆の面前で演じられた画家たちの「アクション」の闘技場にピカソもまた参入したのだ。だがそのアクションは、画家の姿を消去し絵画に自動展開の印象を授ける媒介性と、複数の人間的/非人間的作用者を混ぜる異種混淆性において際立っている。
本発表は『ミステリアス・ピカソ』最終部を構成する《ラ・ガループの海水浴場》の制作過程を対象に、諸技術と諸主体を貫通して物体化されたピカソ他(Picasso et al.)の思考プロセスを分析し、絵画あるいは絵画をひとつの焦点面とする諸技術と有機体の合生的ネットワークが「考える」とはいかなることなのかを示す。観点は2つ:
1)物体化された思考:《ラ・ガループ》を最終的に完成/中断させる六角連鎖構造は、画家の意図なしに絵画面に次第に蓄積される。絵画を構成する準−意図は、画家の生物学的身体の外、絵画の物体的表面に分散している。
2)埋め込まれた/集合的な思考: 245段階に寸断された《ラ・ガループ》の制作過程は、仮設スタジオ環境、H・コルピによる1/24秒単位で変動する編集、新たに開発されたフィルム結合技術、G・オーリックによる音楽とともに合生的形象をなし、集合的で異種混淆的な再帰的意識を構成する。
ステファン・フォン・ヒューネの知覚論──点と面、物質化を介在した知覚の拡散と集約
坂本泰宏(マックス・プランク経験美学研究所)
イメージ知覚分析のための手掛かりのひとつである、ゲシュタルト知覚理論に基づく個の接続/截断による群化、そして統合された群から新たな個を生む知覚メカニズムの解明は、近年の基礎神経科学界隈の関心事でもある。しかし、同領域にも通じる、物理特性としてのイメージとその知覚を観察する経験科学的《下からの》知覚論と、表象としての作品分析を始まりとする人文学的《上からの》知覚論は、双方が扱うイメージの質的相違から必ずしも一致しない。
S・V・ヒューネは後期作品である音響彫刻群の制御機構に剥き出しの機械構造を取り込むことでイメージの物質性を強調し、知覚表象の徹底的な客観化を促すという手法によって、これら似て非なるふたつの知覚論の統合を試みた。80年代初期の作品『テクスト・トーンズ』では、イメージの視覚偏重からの解放と空間における物質化をラディカルに押し進めることで、表象を経験科学的にも観察可能なレヴェルにまで昇華させることに成功している。それはカンディンスキー以降、ティンゲリーやストックハウゼンらによって媒体を変えて継承されてきた「点と面」を主題とした知覚のスタディの系譜に適切な解答を与えている。
本発表では、ヒューネが同作品のために遺した数点の技術スケッチの読み解きとイメージの技術的再表象から、「物理と表象」ふたつのイメージ世界を往来した彼の思考とスタディの痕跡を辿り、その知覚論の核心に迫る。
贈与論による限界芸術の再考
大絵晃世(東京芸術大学)
本発表は「限界芸術」の概念の解釈の変容に対して考察することと、この概念に対してマルセル・モースが提唱した贈与論における「贈与」の概念を使用し考察することを目的とする。「限界芸術」の概念は鶴見俊輔の著書「限界芸術論」で提唱された概念であり、純粋芸術や大衆芸術と区別し、生活と芸術の境界にある広大な表現領域を指す。「非専門的表現者によって作られ、非専門的享受者によって享受される芸術」という定義であり、民芸品をはじめ、民謡、祭り、替え歌、漫画、落書き、デモ、花火、盆栽、手紙など、日常の様々な美的経験として存在する。
一点目として、この限界芸術の解釈の変容を追う。まず福住廉、鷲田清一などの解釈を考察し、近接する思想として、ヨーゼフ・ボイスや宮沢賢治、柳宗悦との関連性を述べる。
二点目として、この概念に対する疑問点・問題点を「贈与」の概念によって考察する。
疑問とは例として以下のようなものである。「限界」とはつまり周辺であり、先に挙げたように手紙などの極めて個人的なやりとりを含めて指しているわけであるが、個人的なやりとりにも様々なものがあり、例えば誹謗中傷の文書や脅迫状などのいわゆる非人道的な類いの手紙も限界芸術といえるのか、という疑問である。限界芸術の定義をありのまま受容すれば、一般的にいう非人道的な行為も芸術として肯定されてしまう可能性も出てくるのだ。
この疑問に対するアプローチとして、贈与論における「贈与」と「交換」の対概念を利用し考察する。これは、あらゆる社会的行為を構造的に分析した概念であり、後者と違い前者は受け取ったものに返礼の義務が生じる、とモースは述べている。この両者の性質の差を利用し、社会的コミュニティーの中で成立している「限界芸術」の境界の考察を試みたい。
なお、ここでの贈与論の引用は、その提唱者であるモースの他、その後のバタイユ、サルトル、レヴィ=ストロース、デリダ、マリオン、中沢新一、岩野卓司らの解釈を参考としている。