第9回研究発表集会報告 | 研究発表1 |
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2014年11月8日(土) 12:00-14:30
新潟大学五十嵐キャンパス 総合教育研究棟 F271教室
研究発表1
狭間の気象映像──コンピュータシステムの日常化以降の映像及びメディアと身体の関係
松谷容作(神戸大学)
ネットを通した若者たちの自己表現についての一考察──VineとYouTubeの事例をもとに
難波純也(東京大学)
「『平成』改元」と〈顔〉の記憶をめぐる記号論的考察──ロラン・バルト『表徴の帝国』を手がかりに
鈴木洋仁(東京大学)
『ギニーピッグ』から考察する80年代レンタルビデオ市場と「個人撮影動画」
鈴木潤(新潟大学)
【コメンテーター/司会】長谷正人(早稲田大学)
「映像」というテーマにおいて共通する本パネルは、「従来のフィルム・スタディーズや写真研究からすると、新しいタイプの映像研究になる」という、司会者の紹介によって開始された。たしかに、個々の発表は一見、無関係に思えるものではあったが、それぞれが独自の方法論をとりながらも、緩やかに連動していくような議論を展開することになる。
第一の発表者である松谷容作氏の発表は、気象映像について次の二点を確認することからはじまる。つまり、わたしたちが日常に接する気象映像が、近い将来における大気中の気温や風雨の予報し、可視化する「シミュレーション」としての性格をもつこと、そして、情報処理技術の展開によってますます、わたしたちの生命/活と密接に関係するようになりつつあるという現状である。そのうえで気象映像の組成をその流通と操作という観点から分析する作業は、昨今のメディアアートが提起するイメージのあり方と、最新のスペースアートの実践に指摘される身体的な制御の問題という、ふたつの事例との比較によって進められる。前者においては、現実空間とネット空間の境界線が失効したところに現れる対象が「イメージ・オブジェクト」と呼ばれ、また後者の実践は、微少重力の宇宙空間において安定性を失った身体や知覚がもとめる言語以前の対象を「よりどころreference」として問題化する。こうして気象映像をいわば、地上空間と宇宙空間との狭間に定位すると、それらをわたしたちの情動的な反応との関係において考察する議論が展開された。
続いて難波純也氏が試みたのは、インターネットと携帯カメラの普及が可能にした映像実践についての分析と考察である。2005年以降に急速に展開したYouTubeに対して、2013年に提供されたVineとは、スマートフォンによって手軽に制作可能なショートムービーを最大6秒という制限のうちで共有するためのツールを提供している。ここで分析対象となったのは、10代から20代の若者たちが、日常生活における些細な事柄をコミカルなかたちで編集し、共有するための独自のコミュニケーション形式として活用する実態である。オンライン上の映像に顕著な断片化やスペクタクル性といった特徴がしばしば、1900年代までの初期映画との類比によって考察されてきたのに対して、難波氏の発表はVineの特徴を「テレビ的なもの」へと拡張することによって、これらのネット動画をメディア史のうちに位置づけると同時に、その重なりとズレの双方とを明らかにしようとするものであった。
ここまでの議論が、デジタル技術によって日々送信と更新を繰り返す映像をめぐるものであったのに対して、三人目の鈴木洋仁氏が提示したのは、テレビ中継から抜き出された一枚のスチル画像である。それは「平成」改元を発表する記者会見において、毛筆で記された新たな元号をカメラに向かってみずからの顔のすぐ横に掲げた、小渕官房長官(当時)のクロースアップ画像であった。天皇の表象にまつわるこれまでの研究が、その重層性を読み解くようなメディア論的アプローチをとってきたのに対して、この無表情な顔と儀式的な書との組み合わせは、その確固たる法的根拠をもたないままに、ただ「テレビの時代」だからという理由によって用意された表層的なシニフィアンでしかない。そうでありながら、この一片の映像は「元号=歴史」という「エクリチュール=文字」を視覚的に刻み付けることによってひとつの時代を画し、現在にまで反復されることにもなる。鈴木氏の発表は、このように特異な意味を帯びた映像を、ロラン・バルトがこの国について著した『表徴の帝国』を導き手としつつ、「平成」という時代のある種の徴候として分析してみせた。
最後に四人目の鈴木潤氏が考察するのは、1980年代にマニアックな観客を獲得していたスプラッターホラーのビデオシリーズ『ギニーピッグ』である。なかでも、一作目の『悪魔の実験』(1985、監督不明)と二作目『血肉の華』(1985、日野日出志)の詳細な分析が明らかにしたのは、差出人不明のままに届いたビデオフィルムが引き起こす恐怖という感覚が、1980年代のレンタルビデオ市場というマニアックな流通空間において醸成されていたという事実であり、その一方で、そのことはテレビやビデオといったメディウムに心霊を取り憑かせる1990年代以降の「Jホラー」とも接続可能な特徴であるという指摘でもある。これら流通方法と表現内容というふたつの位相において、映像メディアをめぐる公/私の境界線が溶解していたとする鈴木氏の発表は、最終的にそのことが、現代のインターネットを中心とするメディア環境とも少なからずシンクロするような特徴をもつことを指摘することによって閉じられた。
以上、冒頭の言葉が予告したとおり、現代の映像メディアをめぐる各々の発表は、その主題や方法論において異なるものではあったが、その後の全体質疑もあり、そこに共通する問題の在処が徐々に形成されていくかのような印象を受けた。誤解を恐れずに関連づけるなら、第一の発表が、気象という極めて抽象的な対象を身体に直接的に関与する具象的な映像へと変換するプロセスを検討するのに対して、第三のものはそれを逆転させるかのようにして、具象的な人物像と文字とが集団的な流通と消費を介して「時代」という抽象的な概念へと変換されていくプロセスを考察する。また、第二と第四の発表が共通して着目するその流通のプロセスは、1980年代と2000年代以降という技術的転換の前後を対比的に描き出し、映像メディアをめぐる公/私という観点そのものが変質していたことを浮かび上がらせていく。
こうしてみると、すべての発表に共通していたのは、特定の作者を欠いた映像(作品)の自律した内容や消費形態に閉じることなく、それぞれが不特定多数のひとびとのあいだを流通する回路において、おのずとその表現形式や意味内容に変容を引き起こすという、ダイナミックなプロセスにあったと言えるかもしれない。結果として、個々の主題がよりいっそう興味深いものとなるばかりか、このような共通点は、今後の映像論のあり方のひとつを指し示しているようにも感じられた。
増田展大(早稲田大学)
【発表概要】
狭間の気象映像──コンピュータシステムの日常化以降の映像及びメディアと身体の関係
松谷容作(神戸大学)
コンピュータによって創出された映像は、現在の私たちにとって不可欠な存在である。というのもエコー動画や株取引画像など、デジタル形式に基づくこの映像は私たちの内部に入り込み、生(活/命)を支えるからである。またその種の映像は、組成条件やネットワークとの結合から、メディアの区分(映画、写真、アニメーションなど)やマス・メディアの区分(出版、通信、放送など)を混合し、無効化する。結果、映像及びメディアと身体の関係は新たなフェーズに至った。
その典型的な例として、PCやスマートフォン上で経験する気象映像がある。それは、宇宙と地球の狭間でグローバルに循環する非物質的な気象を捉え、それを実写動画像、静止画像、アニメーションなどの混合によって美的に整備し、物質性を帯びたものにした科学映像である。受容者はそれをマウスや指先で操作しながら遊戯性をもって経験する。またそれはマスコミュニケーションのコンテンツであるが、GPSを駆使することでプライベートな情報となる。つまり気象映像は、宇宙と地球、自然と人工、非物質性と物質性、映像分類、科学と芸術または遊戯、グローバルとローカル、マスとプライベートといった諸区分を失効させ、人びとに新たな映像やメディア経験を与えるのである。
本発表はそうした気象映像を分析することで、コンピュータシステムが日常化した以降の映像及びメディアと身体の関係を語る視座を提起することを目的とする。
ネットを通した若者たちの自己表現についての一考察──VineとYouTubeの事例をもとに
難波純也(東京大学)
昨今、携帯電話やスマートフォン、パソコンといったメディアを用いた自己表現が顕著となっている。YouTubeをはじめVineやTwitter、Facebookで多くの若者たちが自身の趣味や休日の模様、個人的な意見を披露して自己のアイデンティティを作り上げていく様子を見てとることができる。このようなデジタルメディアを用いた現代の自己表現については、すでにメディア論や若者文化などを論じる社会学、精神分析などの観点から批評が行なわれている。しかし、それらの批評はこの自己表現の様相を否定的に考察する傾向が強い。
本発表ではそれらの論考を踏まえながら、VineとYouTubeにおける映像を用いた若者たちの自己表現の事例をとりあげて分析を行ない、否定的な側面から論じられるこの行為の一つの含意を読み解く。まず、これらの自己表現は短時間で断片的な映像であることや、誰にでも気軽にできる利便さがあり、撮影者が自らを映してカメラに向かって語りかける自撮りや友人との接写による撮影を中心とした自己演出であること、さらにはネットを通じて拡散され知れわたる行為であるといったことを映画学やテレビ研究の手法を用いながら論じる。特に、実際の若者たちの自己表現の映像を分析し、彼ら・彼女らの表現そのものがテレビ的演出を基礎としていることを明らかにし、マスメディアに影響を受けながら行為するという一つの側面を指摘する。
「『平成』改元」と〈顔〉の記憶をめぐる記号論的考察──ロラン・バルト『表徴の帝国』を手がかりに
鈴木洋仁(東京大学)
本発表は、昭和64年1月7日に行われた「『平成』改元発表の記者会見」を対象に、その場面を、ロラン・バルト『表徴の帝国』に即して考察する。
周知のとおり、件の会見は、小渕恵三・内閣官房長官(当時)が、「平成」の書を額縁に入れて掲げた光景として記憶されている。本発表では、この光景が歴史に照らして特異である点を指摘した上で、小渕氏の〈顔〉と「改元」の関係について、「平成」それ自体の記号的意味作用の予兆だったと論じる。
「改元」の光景は、近代日本において明らかにされてこなかったにもかかわらず、「平成」においては、小渕氏の〈顔〉とともに立ち上がる。その事態はまさしく、バルトが『表徴の帝国』で説いた「〈身体(の儀礼的な身振り)〉と〈顔〉と〈書〉の交錯・交流」における、それぞれの表徴が記号としての意味作用を摩滅する過程にほかならない。言い換えれば、小渕氏が額縁を掲げた〈身体(の儀礼的な身振り)〉、彼の〈顔〉、そして「平成」の〈書〉が、あの記者会見において交わったのである。そして、この交錯によって、「平成」の「改元」の歴史的な特異性がもたらす意味作用の摩滅を準備したのである。本発表は、「〈顔〉と表象」をめぐる、この機制を明らかにしたい。
『ギニーピッグ』から考察する80年代レンタルビデオ市場と「個人撮影動画」
鈴木潤(新潟大学)
現在、You Tubeやニコニコ動画などの動画投稿サイトによって、アマチュアが撮影した動画は、誰もが容易に視聴できるものになっている。これらの動画には、ホームビデオのように、撮影者や被写体である人物にとってごく私的な出来事を記録・撮影したものもあれば、事件や事故の様子を撮影したショッキングなものもあり、その種類は実に多様である。だがインターネット上の動画共有サービスが定着する以前、私的な領域で撮影された映像は、テレビなど公共性の高い「表」のメディアが決して媒介しない「裏」の映像であると考えられてきた。とはいえ、そうした「裏」の映像が流出し、公共性の低い「裏」のメディアによって媒介されて流通する環境が存在したことも忘れてはならない。
本発表では、とくに「裏」での流出・流通が幻想されていた、「スナッフフィルム」をはじめとする過激で残酷な個人撮影動画に焦点をあてるため、80年代のオリジナルビデオ作品『ギニーピッグ 悪魔の実験』(85年、監督不明)、『ギニーピッグ2 血肉の華』(85年、日野日出志)を取りあげる。「アマチュアが撮影したショッキングな動画」というモチーフを共有する両作品の内容と文脈を分析することにより、「表」のメディアが媒介しない映像が流出・流通する(あるいは、それを期待された)環境としての、80年代のレンタルビデオ市場の様相を明らかにしていく。