第9回研究発表集会報告 | 企画パネル1&関連企画1:アラン・セクーラ、写真とテクスト、イメージと地政学のあいだ |
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2014年11月8日(土) 14:45-16:45
新潟大学五十嵐キャンパス 総合教育研究棟 F271教室
企画パネル1:アラン・セクーラ、写真とテクスト、イメージと地政学のあいだI
(PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015と共催)
写真を逆なですること──セクーラの写真実践/写真論
前川修(神戸大学)
産業資本主義の画像言語──写真アーカイヴとセクーラ
佐藤守弘(京都精華大学、PARASOPHIAプロフェッショナルアドバイザリーボードメンバー)
イメージのマテリアリティとサーキュレーション──セクーラを起点として
北野圭介(立命館大学、PARASOPHIAプロフェッショナルアドバイザリーボードメンバー)
【司会】番場俊(新潟大学)
秋の表象文化論学会を新潟ですることになったんだけれど、何か面白い企画はない?──そんな相談を最初にもちかけたのが、こともあろうに元同僚の北野圭介だったのは、いまから思えばきっと魔が差したのに違いない。あれよあれよという間に話は進んだ。──来年の春に京都でPARASOPHIAという大規模な国際現代芸術祭が開かれる。そこと共催にしてはどうか。ディレクターは河本信治という人で、亡くなったセクーラをめぐるシンポジウムをやりたいと言っている。どうやら友だちだったらしい。セクーラだったら登壇者は誰と誰で、ちょうどいいから今度打ち合わせを新潟で……。
こうして、アメリカの写真家・写真史家アラン・セクーラをめぐるシンポジウムが実現することになったわけだが、それがいかに僥倖に恵まれた出来事であったかは、CiNiiでセクーラを検索してみれば誰でもすぐに納得できる。日本の表象文化論学会界隈の研究者たちのあいだでセクーラが知られていなかったとは言わない。写真論のアンソロジーを数冊手に取れば、すぐに名前を見出すことができるくらいには有名な人物なのだから。だが、実際のところどれくらい読まれていたのか。読もうにも、セクーラの書物は日本にほとんど入っていないのである。いくつかの雑誌論文はPDFですぐ手に入る。だが、代表的な論文集は日本の図書館には存在しない。写真家としての仕事はどうか。セクーラの写真集は図書館にないばかりか、インターネットの古書店でも信じられないような高値がついている。とてもたやすく手を出せるような代物ではない。要するにアラン・セクーラは、日本ではほとんど禁じられたも同然の作家だったのである。偶然、かねてよりセクーラに関心を抱いてきた筆者も、彼の仕事の全貌を見きわめるのはほとんど諦めていた。ところが、北野氏の人脈とエネルギーで企画は急速に進んだ。セクーラを長年フォローしてきた日本随一の研究者である前川修氏と、写真アーカイヴの問題を掘り下げて刺激的な論考を次々に発表してきた佐藤守弘氏──ともにジェフリー・バッチェンの邦訳者でもある──の全面的な協力のもと、最終的には、生前のセクーラとも付き合いがあり、2001年の横浜トリエンナーレでは実際に彼のプロジェクトに協力もした河本信治氏自身が新潟に乗り込んでくるかたちで、シンポジウムと関連企画が実現するという。現在考えうるかぎり最高の布陣である。どうしてこんなことになったのか。狐につままれたような気分で、あらためてセクーラのテクストに向き合うことになったのが、セクーラの逝去からちょうど一年後、2014年の夏であった。
それが表象文化論学会の企画パネルとしてふさわしいものであったかどうかは分からない。そもそも司会者自身が、司会の仕事をなかば放棄していたようにみえる──わずかな隙を見て、セクーラにささやかなオマージュを捧げることに全神経を集中していた有様なのだ。発表者三人もそれぞれ好き放題をしていたようだ。──前川氏はセクーラのテクストの「読みにくさ」にあえて沈潜する快楽に身を委ねていたようにみえるし、佐藤氏は、ときにはセクーラを置き去りにしてまで、とある炭鉱町の鉱業写真アーカイヴの採掘結果を楽しげに報告する。北野氏は、『映像論序説』と『制御と社会』の著者のみに許された野蛮さでもって、映像が抱え込む「物質性」を問題化しようとしていた。それぞれの発表原稿は加筆訂正され、PARASOPHIAの開幕にあわせて刊行されるカタログに日英二か国語で掲載されることになっているから、ぜひ参照されたい。
番場俊(新潟大学)
2014年11月9日(日) 10:00-11:30
砂丘館(旧日本銀行新潟支店長役宅)
関連企画1:アラン・セクーラ、写真とテクスト、イメージと地政学のあいだII(トークセッション)
(PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015と共催)
講演者:河本信治(PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015アーティスティックディレクター)
コメンテーター:前川修、佐藤守弘
【司会】北野圭介
概して傍若無人であった第一部のシンポジウムに比べ、翌日、関連企画として開催された第二部はずっと落ち着いた雰囲気だったが、これがまたきわめて刺激的な経験であった。亡き友に対する敬愛に裏打ちされた河本信治氏のレクチャーと、ひきつづく議論のなかで浮かび上がってきたのは、「グローバリゼーション」のおしゃべりのなかでともすれば忘れられがちな「モノ」の手触りであり、極度に専門化されたアートワールドの外部で執拗に持続する「海」の轟きであったように思う。ショート・フィルム『Tsukiji』(2001年)の冒頭でカメラが執拗に追いつづける、冷凍したマグロを引き寄せる手鉤──河本氏によれば、セクーラは、世界中に分布している手鉤の三つのタイプについて語っていたという。彼を惹きつけるのは道具の形態ではない。築地市場で振るわれる手鉤は、その道具が組み込まれている生産過程をrepresentし、グローバル化された労働市場においてなおも残存しているローカルな差異をrepresentしているがゆえに、すぐれてセクーラ的な映像になっているのだ。フロアの甲斐義明氏や橋本一径氏らの批判的なコメントもまじえて、砂丘館(旧日本銀行新潟支店長役宅)という歴史的な場所において、映像の「交通traffic」と「物質性materiality」という問題をあらためて提起したこのイベントは、「表象文化論」という「制度」にとって、どのような意味をもつ出来事であったのか?──その検証は、今後の私たちの仕事をまつほかない。
番場俊(新潟大学)
【パネル概要】
昨年逝去したアメリカの写真家・写真史家アラン・セクーラ(1951-2013)の仕事を、いま、あらためてとりあげたい。『写真を逆なでする』(1984年)に収められた初期の論考や「身体とアーカイヴ」(1986年)といった理論的著作は、ロザリンド・クラウスやジェフリー・バッチェンといった理論家たちに大きなインスピレーションを与えてきたし、『フィッシュ・ストーリー』(1995年)や『タイタニックのあとで』(2003年)といった写真作品は、ジェフ・ウォールとの対立といったゴシップ的な関心をこえて、言葉とイメージ、ドキュメンタリーとアート、グローバリゼーションと海といった、さまざまな「あいだ」の問題を先鋭に提起している。「PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015」との共催で企画された本パネルでは、PARASOPHIAプロフェッショナルアドバイザリーボードの北野圭介、佐藤守弘に、長年セクーラ論に取り組んできた前川修を加えた三名が、セクーラの写真実践と写真論を再評価し、グローバル化した今日の社会とアートの変容のなかに位置づけることを試みる。
【関連リンク】
PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015
URL:http://www.parasophia.jp/
関連企画1の写真提供:PARASOPHIA事務局