新刊紹介 | 翻訳 | 『重力の虹 上・下(Thomas Pynchon Complete Collection 1973)』 |
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佐藤良明(訳)
『重力の虹 上・下(Thomas Pynchon Complete Collection 1973)』
新潮社、2014年9月
新潮社から刊行が進んでいるトマス・ピンチョンの作品集から、ついに『重力の虹』の新訳が刊行された。ピンチョンの名を神話的なものにしたその寡作ぶりをみずから裏切るかのように近年では立て続けに彼の新著が発表されている。しかしそうした状況にあってもなお、トマス・ピンチョンという作家名ともっとも深く結びついているのは、やはりこの『重力の虹』であるように思われる。
この作品の解釈や様々な細部に関する注釈は、すでに膨大な量になっている(そうした注釈が脚注に反映されていることは、新訳の特徴のひとつと言って良いだろう)。しかし、評者自身映画研究者であるということもあり、ここではその中でも特に、映画が果たしている役割について簡単に論じておきたい。
本書において様々な映画が参照されていることもまた、すでに議論の対象となってはいる。しかし、『重力の虹』において興味深いのは、映画が、単なるしかじかの作品の参照にはとどまらない何らかの意味を担っているように見えることである。例えば、本書において主役といえるのは言うまでもなくV2ミサイルであるが、積分によって求められるV2ロケットの軌跡は、フォトグラム断片が運動を与えられて単一の動くイメージになるという動画生成のプロセスになぞらえられている。V2ロケットは人間の精神を二項対立的な思考を超えた「超逆説層」へと連れて行くとされるが、積分の累積(科学的世界観の支配の加速)によるその自己崩壊という作品の思想的な骨子そのものが、イメージの断片と統合の弁証法と分かちがたく組み合わされているのだ。また、登場人物の一人であるロケット研究者ペクラーは、娘イルザを映画経験によって受胎したと考えており、父親と数年に一度しか会うことができないイルザもしばしばフォトグラムの断片のように描き出されるなど、映画的形式の参照は、描写やエピソードの水準にも及んでいる。さらに、本書において節と節は、「□」の記号が数個並べられるかたちで区切られているが、これは映画のフィルム送りのためのスプロケット穴を模したものではないかという指摘もある。このように作品の様々な水準で、映画の再現メカニズムが重要な役割を果たしているのである。
しかし、ここで強調しておきたいのは、文学的想像力における映画の影響などといった、それを覆うカビさえも風化済みのテーマではない。ここで興味深いのはむしろ、映画の再現メカニズムが効果として生み出すイメージや、映画になぞらえられる精神の働き(想像力)である。つまり、映画というメディアに仮託されて語られているのは何だったのかを考えるほうが、今日ではより生産的であるように思われるのである。
映画というメディアのインパクトは、想像力を機械的プロセスとして疎外しその結果「イメージ」を可視的なものとして再定義したという点にあった。19世紀のロマン主義的な発想の中では見えないものを志向するとされていた想像的なものは、20世紀においては自動的な運動を与えられて、可視的な領域に踊り出ることとなった。しかし、今日映画について考えるにあたっては、それを、カメラという装置を絶対化することなしに、心的なものや想像力を巡る言説の変容の一環として考える必要がある。
『重力の虹』に回帰的に現れるのは、映画というより、限りなく映画に似てはいるが、しかしそれとは独立に考えることもできる心的能力の発露である。パブロフ的な自動運動のさなかに妄想と現実を行き来する主人公のスロースロップをはじめとして、他人の妄想に入り込む「海賊」プレンティスや、さらにはピンチョンが機械論的世界観の彼方に想定した生命的な世界(ピンチョンはそれを「秘密」としてほのめかすに留めているように思われるが)などは、映画的再現形式の影響下にあるものとしてではなく、19世紀から20世紀にかけて生じた「イメージ」あるいは「想像力」の定義の動揺に、映画と同じ資格で巻き込まれているものと考える必要があるように思われる。
カントが言うように、「想像力」が悟性と感性を媒介する認識上の不可避のプロセスであるとすれば、そのような想像力の変容は、精神の位相の変化そのものであるとも言えるだろう。『重力の虹』は、その後のアメリカ文学で多く書かれることとなった、作品によってアメリカ史そのものを読み直す試みの、草分け的な作品と言えるだろう。しかし、このように映画に仮託されたものを浮上させたとき見えてくるのは、その作業が位置付けられるさらなるコンテクストであるように思われる。『重力の虹』は、アメリカ史を、19世紀から20世紀にかけて生じた精神的なものの位相の変化のうちに位置付けるという、まさにそうした作業によって、「アメリカ」を問い直しているようにも思われるのだ。
もちろんこれは筆者の個人的な印象(妄想)に過ぎないし、仮になにがしかの妥当性があったとしてもそれはこの多面的な作品の一側面にすぎないだろう。しかしもし今日『重力の虹』を新しく読み直すとしたら、少なくともその試みは、過去の読解を動機付けてきた「映画」や「アメリカ」といった言葉の象徴的な機能を突き崩し、テクストをより広いコンテクストに開いていくようなものでなければならないのではないだろうか。
何より、この新しい訳文が、そうした新しい読解を誘っている。長らくピンチョンに取り組んできた訳者の血肉の通った翻訳は、本書が、神話的なイメージのもとに囲い込まれる段階から、まさに「読まれる」段階に入ったことを強く確信させる。訳者がリスクを負って選び取った個々の言葉たちは、読者もまたそのような立ち入った読みに参入することを、誘ってやまないのである。(畠山宗明)