新刊紹介 | 編著/共著 | 『観世元章の世界』 |
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横山太郎(分担執筆)
松岡心平(編)
『観世元章の世界』
檜書店、2014年7月
一つの劇団が600年以上存続し、その活動に伴って書かれた600年分の内部文書が現存しているという状況を想像してみてほしい。そしてその演劇史的価値を。能楽観世流宗家に伝わる世阿弥以来の膨大な文書を保管する観世文庫は、まさにそのような存在だ。
松岡心平を代表者とする研究プロジェクトが、観世文庫の徹底的な調査を踏まえ、ほとんどの資料をデジタル・アーカイブとしてウェブ上に公開したのが2009年のことである。筆者も含む20人からなる調査チームは、この「観世アーカイブ」を活用することで能楽研究にどのような新知見をもたらすことができるかを示すべく、江戸時代における最も重要な能役者の一人、十五世観世大夫観世元章をテーマとする研究書を編纂した。それが本書『観世元章の世界』である。第1部論考編には14本の論文を、第2部事典編には用語事典と重要トピックのコラムを、第3部資料編には中尾薫氏の編による年譜と研究資料目録を、それぞれ収める。
本学会員の多くにとって、近世の一能役者を扱った研究は、芸能史や国文学の独自のコンテキストに寄りすぎていると映るかもしれない。しかし本書は、単に能楽研究の専門書であるだけでなく、芸能が国家、思想、メディア(謡本や型付)等々とどう関わるのかという一般的な問いに対して、豊富な文献資料を通じた実証によって答えを出した、一つのケーススタディーと見ることができる。
元章は、将軍徳川家治の能指南役であり、御三卿にして国学者の田安宗武とも近しい関係にあった。彼はこうした政治力を背景に、国学思想に基づいた謡本(戯曲テキスト)の改訂や注釈、能面や楽器の考証、作り物(舞台装置)や演出の改革、舞を精細に記録する記譜法の開発、孫弟子に至る家元制度の創出といった様々な活動を展開した。近世の演劇人としては類例のないほど多くの書き物を残した点や、それらを独自の合理主義的精神が貫いている点でも興味深い人物である。本書は観世文庫が公開した新資料を通じ、元章のこうした活動の詳細について多くの未解明の事実を明らかにし、「固定化された式楽」というイメージの強い近世能楽の動態を浮かび上がらせた。(横山太郎)