新刊紹介 単著 『ペローとラシーヌの「アルセスト論争」
キノー/リュリの「驚くべきものle merveilleux」の概念』

村山則子(著)
『ペローとラシーヌの「アルセスト論争」 キノー/リュリの「驚くべきものle merveilleux」の概念』
作品社、2014年9月

17世紀後半のパリでは、古典悲劇に対抗して成立した「トラジェディ・アン・ミュジック」が観客を魅了していた。バレエ、合唱、管弦楽、豪華な舞台装置を用いたスペクタクルと、古代の神話を結び付け新たなジャンルを生み出したのは、作曲家・リュリ(Jean-Baptiste Lully)と作家・キノー(Philippe Quinault)である。本書は、その草創期の作品《アルセスト》(1674)をめぐる論争を丹念に吟味していくことで、フランスにおける新たな演劇美学の誕生を描き出す。

鍵となるのは、演劇における「驚くべきものle merveilleux」という概念の二重性である。超自然的な「驚き」──機械仕掛けの神による介入、奇跡、魔術、天変地異など──は、アリストテレスの「詩学」を範とする古典悲劇において慎重に排除された。しかし、当のギリシャ悲劇においては「驚くべきもの」自体は否定されていない。むしろ、筋の展開から生じ、合理的な解決へと導く「驚き」は、悲劇の本質的原理であった。

トラジェディ・アン・ミュジックは、ギリシャ悲劇の復興を標榜しつつ、機械仕掛けの「驚くべきもの」を多用する。この節操のなさが、古典悲劇の正当性を説くラシーヌらの非難の的となった。それに対して、オペラを擁護したペローのアルセスト批評は、若干の「矛盾」(本書、170頁)をきたしながらも、リュリ/キノーの《アルセスト》に「驚くべきもの」の両面を積極的に肯定していく。トラジェディ・アン・ミュジックは、ギリシャ的な正しい「驚き」と、機械仕掛けの偽の「驚き」の優劣、さらには古典悲劇とオペラとの間のヒエラルキーを崩壊させるのである。

ただし、古典悲劇からオペラへ、といった単線的な歴史記述に陥らない点が本書の魅力である。古典悲劇の優位性を説くラシーヌの『イフィジェニー』(1674)にも、超自然的な「驚くべき」ものが忍び込んでいる。また《アルセスト》以降のトラジェディ・アン・ミュジックにおいては、機械仕掛けの「驚き」の要素は弱められ、悲劇性が純化されていく。論争の文化政治的背景──イタリア・オペラに触発された文化ナショナリズムや、機械仕掛けの神と王を同一視する権力と演劇の結託──への目配せも周到だ。「従来の古典悲劇を超え、より古代悲劇に近く、しかも王権の表象を担い、観客の「驚き/称賛」により訴える」(本書、247頁)ことを目指したオペラの革新は、著者によればキノー/リュリの《アルミード》(1686)において頂点を迎える。

本書は、詩人としての顔も持つ著者の、『メーテルランクとドビュッシー』(作品社、2011年)に続く研究書である。2013年に東京芸術大学に提出された博士論文が下敷きとなった。「悲劇」と「オペラ」を巡る寓意劇を目にしているかのような「驚き」に満ちた筆致は、文学、音楽学、演劇学、思想史など広い分野の読者に開かれた議論を展開している。(白井史人)

村山則子(著)『ペローとラシーヌの「アルセスト論争」 キノー/リュリの「驚くべきものle merveilleux」の概念』