新刊紹介 | 単著 | 『アントナン・アルトー 自我の変容 〈思考の不可能性〉から〈詩への反抗〉へ』 |
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熊木淳(著)
『アントナン・アルトー 自我の変容 〈思考の不可能性〉から〈詩への反抗〉へ』
水声社、2014年8月
アントナン・アルトーとは誰か? あるいは、アントナン・アルトーとは何をした人物なのか? これらの問いの答えは決して自明なものではないように思われる。
勿論、アルトーの名前を知らない者はいないだろう。ドゥルーズが愛した「器官なき身体」の思想家アルトー。デリダやクリステヴァ等、「ポスト構造主義」の思想家達が語り続けた作家アルトー。我々の耳には常に既にこの名前が響き渡っていたし、これからもずっと響き渡り続けることだろう。我々はアルトーを知っている。あまりにもよく、知っているのだ。
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本書は、アントナン・アルトーという人間、作家、詩人…等々の全体像を再‐/構成することを試みる書物である。アルトーの生涯に通底する「病」の問題を掘り起こす作業から出発し、演劇論、さらには詩論の綿密な検討を経由して、アントナン・アルトーというひとりの人間の自我の変遷が少しずつ明らかにされていく。
例えば、冒頭のパッセージを引用してみよう。「彼にとって書くことは決して自然で本能的なことではなく、ある痛みをともなう行為であった。ではなぜ書くのか。彼にとって書くことは詩的な使命のようなもので、例えばある運命によってそうすることを強いられていると考えることができるだろう。しかしそうでは全くない。詩人である前に、彼は自分を苛む問題を解決し、また病から癒えることを望んでいる一人の人間である。」
出発点において、この書物の著者が着目するのはアルトーのテクストではない。彼が着目するのは、テクストを生み出すに至る一人の人間の「痛み」である。本書を読み進めるうちに、この痛みがアルトーにおける「思考」と「言語」との乖離に起因するものであることが明らかにされ、それゆえにこの主題が演劇論や詩論と結びつけられて展開させられていくのも納得できるのであるが、さしあたりここではこれらの問題を深めることはしない。むしろここで問題にしたいのは、あくまでも一人の人間の「痛み」を起点として一冊の書物が書かれてしまうという事実それ自体である。
果たしてこれはどのようなことなのであろうか? 言うまでもなく、作家論・作家研究というのは文学研究における一つの王道である。しかしながら現代において──個人の生の重みが限りなく失われつつあるように思われるこの現代において──、ひとりの人間の痛みについて一冊の書物を捧げるという行為は、それ自体、極めて意義深いことであると同時に、一種の「謎」であるようにも思われるのである。
あるいは、この行為が文学研究と呼ばれるものと直接的に結びついていることもまたひとつの問題を提起するように思われる。なぜ文学の問いは──あるいは文学の問いだけが──一人の人間の痛みを扱う=癒すことが出来るのであろうか? ここでは、「批評」と「臨床」の絶対的な癒着と、そして絶対的な乖離の問題を改めて問い直す必要があるとだけ述べておくことにしよう。
いずれにせよ、本書は文学と生に関するいくつかの回避不可能な問いを我々に投げかけているように思われる。同時代の心理学の調査、他の作家や芸術家との比較、後世の詩人への影響…等々、この書物の価値を見出す道は他にも存在するだろう。しかしながらここでは、文学と生に関わるこの点にのみ注意を促すことで、本書のささやかな紹介に代えさせて頂くことにしたい。(栗脇永翔)