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セゾン現代美術館「引き裂かれる光——ブルー・カタストロフィー[むらさき]レッド・イリュージョン」展
・会期:2012年7月6日〜9月30日
「ブルー・カタストロフィー」の試み
昨夏、軽井沢にあるセゾン現代美術館のコレクション展で展示の一部を担当させてもらった。全体のタイトルは(実はわたし自身の命名だが)「引き裂かれる光」。副題は「ブルー・カタストロフィー[むらさき]レッド・イリュージョン」で「青」、「紫」、「赤」の三つのパートをそれぞれ私、京大の篠原資明さん、難波英夫館長が担当するというもの。コレクション展なのだから、キュレーションの可能性ははじめから限定されているのだが、だからこそ逆に、ある種の「メタ展示」の可能性も芽生える。わたしとしては、「青」にちなんだ作品を並べるというのではなく、この時代の「いま」を引き込み、撃ち、すくいとるような展示を試みてみたかった。過去の時間に属する作品の展示ではなく、過去の作品を用いて「現在」を撃つ、まあ、最近刊行した拙著『存在のカタストロフィー』(未來社)のなかで論じたように、歴史を「瓦礫」が積み上がる「廃墟」として見る「歴史の天使」の眼差しを演出してみたかったのだ。
サム・フランシスの作品を並べた「青のパサージュ」やクレメンテとヴァザルリをあわせた「バッハのチャペル」はある意味ではオーソドックスな対応だったが、わたしが精魂を注いだのが、メインの空間をさらに大きな壁で二分してつくりあげた「青の無心伽藍」の空間。その正面に、美術館に無理を言って、黒田アキの三対のブルー・ノイズの作品をある画廊より借り出してもらい、さらには別の小部屋が定位置のはずのアバカノヴィッチのうずくまる「40体の人質」を移動してもらった。そのなかにアニッシュ・カプーアの「天使」と題された巨大な青い「隕石」を、さすがに「吊るす」ことはゆるされなかったので、床置きした。まるで40人が伽藍で祈っているような空間の両脇には向かい合わせにイヴ・クラインの「海綿」とポロックの傑作「ナンバー9」をかけた。背面は、スーラージュの黒のタブロー。それに、わたし自身が大学の構内で「青」について講義しているヴィデオを二台——ナムジュン・パイク風にと言おうか——組み合わせたインスタレーションまで置いてしまった。それはある意味では、「メタ展示」、展示インスタレーションへの「署名」のようなものでもあったのだが。
そこでは展示をする者は透明に欠落してはいない。展示がある種の客観性の神話(それは同時に「権威」ということでもある)にまもられるのではなく、展示の「権威」そのものが「作品—非作品」の対のさなかでディコンストラクトされることが試みられていた。だから、当然のことながら、「青の講義」のヴィデオは、ノイズが入ってよく聴き取れないようになっているのだが、「講義」をしているわたしの顔を観客が「蹴っ飛ばし」たくなるように床に乱暴に投げ出されていたというわけである。
作品が線状に展示されるのではなく、それぞれ関係ないものが、束の間、相互に干渉し、浸透しあって、複雑な関係の網の目が出現する。展示する者もその空間のなかに巻き込まれる。とすれば、当然、観る者もまたそこに巻き込まれるべきなのであって、その仕掛けを生み出すこともまた展示の責任ということになるだろうか。そのようなことを考えつつ、会期中の1日だけでのことではあったが、友人たちにお願いをして、アバカノヴィッチの40体の「人質」の群のなかからゆらゆらと暗黒舞踏の肉体が踊り出す前代未聞の「茶会」を組織してもらったのだが、その経緯についてはここでは記さない(『存在のカタストロフィー』参照のこと)。
おそらく、われわれの歴史はもはや「線状」の空間では把握することができないのだ。歴史には非線形のアナクロニックな多層多様の空間を通してしか触れることができない。そんな茫漠な思いを確認することができた、わたしには貴重な経験だったのである。(小林康夫)