第7回研究発表集会報告 | ミニシンポジウム |
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2012年11月10日(土) 16:00-18:00
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1
ミニシンポジウム:イメージの権利
問題提起:岡田温司(京都大学)
加治屋健司(広島市立大学)
橋本一径(早稲田大学)
森元庸介(東京大学)
【司会】木下千花(静岡文化芸術大学)
画像の使用権に関わる交渉は、表象文化に関わる多くの研究者にとって、非常に現実的かつ実際的な問題である。本表象文化論学会においても、近い将来、画像の使用に関するルール作りが必要となるかもしれない。しかし今回のミニシンポジウムでは、そのようにしばしばテクニカルな問題として(のみ)処理されがちなイメージに関する権利を、敢えて学術的な議論の対象として、歴史的にも領域的にも広範な観点からとらえ直すことが試みられた。
まず発起人の岡田温司氏は、イメージの権利という問題を考えるにあたって、新たな複製技術、新たなメディウムが誕生するごとに、新たなオーサーシップ、新たなコピーライトの定義が必要とされてきたことを指摘した。その早い例として氏が挙げたのが、ティツィアーノによるヴェネツィア共和国政府への、自作品の版画を出版するためのライセンスの要求である。このようなライセンスの発行によって、作品のモラルや質を守るという名目の下、作者の権利と版元の商業上の権利(生産・流通の独占)が保護されはじめた。だが、ここで重要となるのが、それに伴う義務――検閲に他ならない。ライセンスとは常に検閲(センサーシップ)、すなわち権力によるコントロールと裏腹の関係におかれていたのである。
続けて岡田氏は、現代におけるこれら「権利」をめぐる議論と、その問題点を挙げていく。たとえばアガンベンは「権利」や「所有」に対して、それらに縛られることのない「使用」の概念を掲げている。だが、そこにはアガンベン特有のテクノフォビア的な側面がつきまとう。一方経済学者のジェレミー・リフキンは、文化資本主義の段階においては、もはや「所有」ではなく、「アクセス」の手段や可能性こそが問題となると主張する。けれどもこの場合の「アクセス」とは、「所有」の一形態に過ぎないのではないかという疑問がある。
オリジナリティ、模倣、剽窃といった概念の輪郭がますます不透明になり、フリー・アクセスとデジタル・エシックスの対立がますます先鋭化しつつある現況、われわれの目は司法的・行政的な問い立てへと向けられがちである。しかし岡田氏はそれらの問題を一時保留し、歴史的・文化的・思想的な領域におけるイメージの「権利」とは、そしてそれが伴う「義務」とは一体どのようなものであったのか、という問いを投げかけた。
最初の報告者である森元庸介氏は、イメージをめぐる規範の原形を、プラトンとアリストテレスの議論にまで遡って提示した。プラトンはイメージをイデアの影として断罪しつつも、「イメージはイメージである」ことが了解されている限りにおいては、イメージは危険ではないと見なしていた(『国家』第十巻)。プラトンにとっては、人びとが画像に接近し、それが描かれた像であることを見破ること、つまりイメージに対して「適切な視点をとる」ことが重要だったのである。
対してアリストテレスは、やはりイメージ一般を否定するのではなく、善きイメージと悪しきイメージを弁別し、後者を排除することを主張した(『政治学』第七巻)。森元氏の表現によれば、アリストテレスはイメージに対して「適切なフレーム」をあてがうことを主張したのである。
このような古典時代のイメージをめぐる議論は、その後のキリスト教文化のうちでどのような展開を見せたのだろうか。森元氏はまず、キリスト教における聖像の位置づけを決定した、ニカイア公会議およびトリエント公会議での議論をとりあげる。周知のようにこれらの会議では、聖像の使用は、それが神を志向するための媒介物に過ぎないというプラトン的な前提の上で、承認され正当化された。けれどもこのようないわば元々肯定的なイメージに対して、俗悪・猥雑な世俗のイメージが許容されるためには、当然ながらより複雑な手続きが必要となった。
たとえば森元氏が挙げるのが、17世紀イタリアの神学者アントニーノ・ディアナの説である。ディアナは、裸体のような猥雑なイメージであっても、その制作理由が学術目的のようなしかるべきものであるならば許されると主張した。森元氏が注目したのは、彼の発言内における学術目的という「フレーム」の理論である。学術目的というフレームをある種のエクスキューズとして利用するという点で、ディアナの主張にはわれわれの現在の状況にも通じるものが感じられるのではないだろうか。
最後に森元氏は、修道院内における聖母マリア像の不適切な使用――つまりイメージをめぐる規範からの逸脱を報告する、17世紀の修道院つき聴罪司祭のテクストに言及する。氏が特に強調するのが、この逸脱行為が“報告された”という点である。現代の文脈にこの挿話を置き換えたとき、それはイメージの不適切な使用そのものよりも、この不適切な使用によって告発されることへの怖れを喚起する。なし崩しに進む情報公開の中で、このような怖れがわれわれの研究を蝕みつつあるのではないか。森元氏はイメージの使用をめぐる全面的な透明化の要請に対し、公言・公表への留保の権利もまた必要とされているのではないか、という提案でもって報告を締めくくった。