第7回研究発表集会報告 | パネル4 |
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2012年11月10日(土) 13:30-15:30
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム2
研究発表4:現代芸術のパフォーマンス
「ハウり」と「ドモり」――1990年代後半日本のヴォイスパフォーマンスにおける「口語性」の問題
積島直人(青山学院大学)
まなざしの行方――イリヤ・カバコフ作品における空間と枠の問題を中心に
藤田瑞穂(京都芸術センター)
写真における「女」の表象――シンディ・シャーマンUntitled Film Still について
井上康彦(東京藝術大学)
【司会】平倉圭(横浜国立大学)
1970年代から2000年代の表現をめぐって3つの発表がおこなわれた。
最初の発表は、積島直人氏(青山学院大学)。1990年代後半、「J-POP」が日本の音楽シーンを覆うなか、そこから強く逸脱していたヴォイスパフォーマンスとして、吉田アミのハウリング・ヴォイスと、BOSS THE MC(THA BLUE HERB)の独特なフロウが取り上げられた。積島氏は前者を「ハウり」、後者を「ドモり」と概念化したうえで、両者に現れる一種の「口語性」が、同時代の演劇表現とも通底するのではないかという指摘をした。質疑では、「ドモり」・「口語性」といった概念の妥当性、ノイズ音楽におけるマシン‐身体結合の内面化、楽器としての身体の問題、話すことと弾くことの通底性等について検討がなされた。
二番目の発表は、藤田瑞穂氏(京都芸術センター)。イリヤ・カバコフの初期絵本作品と、近年のインスタレーション作品に「枠」のモチーフが共通していることを示し、それが特別な光や、失われつつある世界の意味を見えるようにしていることを分析した。越後妻有に設置された作品『棚田』は、ある一点から見た時に、風景と彫刻とテキストが結びつき、意味が現れる。この新たに現れた意味が、現実世界においても、農家やそれを支援する人、あるいは他のアーティストに影響を与え、実際に動かしていることが示唆された。質疑では、枠が感じさせる不在の不気味と「死」の問題等について検討がなされた。
最後の発表は、井上康彦氏(東京藝術大学)。シンディ・シャーマンのUntitled Film Still がシミュレートしていると言われる「女らしさ」とは実際にはどのようなものなのかについて、アーヴィン・ゴフマンが同時代の広告表現を通して分析した「身振り」、ジョン・バージャー、マイケル・フリード、ローラ・マルヴィらが絵画や映画について分析した「眼差し」の構造、そしてロザリンド・クラウスが分析したシャーマンの「撮影法」を通して分析がなされ、「女らしさ」のステレオタイプが具体的な形象として示された。質疑では、シャーマン作品における撮影者の問題、それぞれの画面で特殊化したステレオタイプの問題等について検討がなされた。
全体討議において私がとりわけ印象に残ったのは、会場の参加者が積島氏の発表に対して述べた、「口語表現に何ができるか、私たちはまだわかっていない。口語表現はたしかに、音楽と演劇に通底する問題として掘り下げられるのでは」という主旨のコメントである。口語表現にかぎらず、諸メディア・諸ジャンルが錯綜し、相互に影響を与え合う現代の表現において実際のところ何が生じているのか、100年後に振り返ったときそこにどんな動きが見えてくるのか、私たちは決してわかってはいない。確定した分析の枠組みはない。表現行為が多様な実験のなかで展開していくように、研究行為もまた多様な実験へと開かれていく必要があるのだと改めて感じさせられた。
平倉圭(横浜国立大学)
【発表概要】
「ハウり」と「ドモり」――1990年代後半日本のヴォイスパフォーマンスにおける「口語性」の問題
積島直人(青山学院大学)
音楽の演奏行為において、基本的な指標の一つとしてサウンド/グルーヴという対立項を導きだすことができる。「声」によることばの音楽的演奏行為の場合、それは一つには発語そのものの質感、そしてもう一つには言葉の流れという双極的な指標となるだろう。ここでそれらの最も端的な例として、発表者が特に注目したいのは、前者に関してはノイズ/ヴォイスパフォーマー吉田アミ、後者に関してはヒップホップグループTHA BLUE HERBのラッパーBOSS THE MCである。両者はそれぞれ異なる領域から1990年代後半に日本の音楽シーンに登場した。吉田アミの「ハウリング・ヴォイス」と呼ばれる「声」は意味や記号性がはぎ取られ、BOSS THE MCの「声」が持つ「フロウ」と呼ばれる流れは、朗読と歌唱の間を縫うように言葉を吃音化させてゆく。しかしそれらはどちらも西洋の近代以降の、いわゆる「クラシック音楽」の音楽的音声表現の否定形ではなく、また”Sprechgesang”のような音楽的音声表現の拡張形とも異なる、本来的な言語的音声表現に依拠していると考えるべきだろう。文字通り「口」から「語」られる「口語的」な発声の構造が音楽的な構造にとってかわっているということである。本発表では、吉田アミの「ハウり」とBOSS THE MCの「ドモり」を「口語音楽」という観点から、同時代に展開されていた平田オリザの「現代口語演劇」論も視野に入れつつ検討する。それを通じて、1990年代後半に日本に生じたボーカルパフォーマンスのパラダイムシフトという問題を考察してみたい。
まなざしの行方――イリヤ・カバコフ作品における空間と枠の問題を中心に
藤田瑞穂(京都芸術センター)
イリヤ・カバコフ作品において、重要なモチーフの一つに「枠」がある。その作家活動の初期によく制作していた〈アルバム〉というスタイルの作品群では、白い画面を縁取るように描くという構成が多用されている。カバコフによると、枠によって白い画面を区切ることで「空間の端を示す」のだという。ソビエトを出て欧米で作品を発表しはじめた彼は、〈トータル・インスタレーション〉と呼ばれるインスタレーション形式の作品に制作スタイルを変化させたが、平面から空間へと飛び出した後も、「枠」のモチーフは依然として存在し続ける。例えば、越後妻有トリエンナーレ2000に出品され、以後その地にあり続け、芸術祭のアイコンともなっている『棚田』では、果てしなく広がる光景が枠で区切られている。テクストが取り付けられた枠の中に見える空間の中にはオブジェが設置され、ある一点からその全体を眺めると、オブジェとテクストが結びつき、田園風景はたちまち物語性を帯びるのである。本発表では、カバコフ作品に仕掛けられた「枠」というモチーフが、区切られた空間にどのように作用していくのかについて考察する。また、「空間の端を示す」ことで「枠」の中に引き込まれていく鑑賞者のまなざしをてがかりに、「見つめる」という行為がカバコフ作品の中で果たす役割について検討したい。
写真における「女」の表象――シンディ・シャーマンUntitled Film Still について
井上康彦(東京藝術大学)
本発表では、シンディ・シャーマンのUntitled Film Still を分析する。シャーマンのデビュー作であるUntitled Film Still シリーズは、シミュレーショニズムとフェミニズムの文脈において「メディアに媒介された「女」のイメージを批判的に再現し男性中心的なメディアの構造を暴き出した作品」と説明されるのが定番だが、詳細なディスクリプションによって具体的に分析されることは稀である。本発表では「撮影法」、「眼差し」、「身振り」の三つの観点から、シャーマンが作品に何を仕掛け、いかなる構造を明らかにしているのかを、視覚的なレヴェルで提示する。分析の手順としては、1) 「撮影法」については、ロザリンド・クラウスが「シンディ・シャーマン――無題」(1993)で分析した《#2》、《#39》、《#81》における粗い画質、被写界深度、アングル、2)「眼差し」については、ローラ・マルヴィが「視覚的快楽と物語映画」(1975)のなかで論じた映画的窃視の構造と映画内部と映画鑑賞における非対称なジェンダー区分、3)「身振り」については、アーヴィン・ゴッフマンが『ジェンダー・アドヴァータイズメント』(1979)において図式化した、広告写真における「女」の身振りのステレオタイプをそれぞれ参照項とする。そして本発表は、Film Stillを写真、映画、広告の要素を包摂した特異なメディウムの形態として位置づけ、シャーマンがそこに投影したアメリカの「女」の表象を明らかにする。