第7回研究発表集会報告 | パネル3 |
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2012年11月10日(土) 13:30-15:30
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1
研究発表3:映像のリミット
「小津的」を構成するもの――小津安二郎・野田高梧による里見弴の著作拝借をめぐって
宮本明子(早稲田大学)
周縁的存在の民族誌としての映画――鈴木清順の映画を中心に
閔愛善(早稲田大学)
合わせ鏡の写真論――新潟県六日町今成家に伝わる写真をめぐって
榎本千賀子(一橋大学)
【司会】長谷正人(早稲田大学)
研究発表3「映像のリミット」では、映画や写真を芸術作品として論じるのとは異なったアプローチから分析することを試みる、三つの報告が行われた。
宮本明子氏の「「小津的」を構成するもの──小津安二郎・野田高悟による里見弴の著作拝借をめぐって」は、戦後の小津作品に里見弴の文学作品からの影響を読み取ろうとする試みである。里見弴は『彼岸花』や『秋日和』の原作者であり、また私生活での小津との交流も広く知られてきたが、しかし小津作品への影響となると、原作と映画化作品とは内容やトーンがまったく違うという理由で否定的な見解がほとんどを占めてきた。これに対して宮本氏は、雑誌記事などの資料を丹念に調べ、小津が繰り返し里見作品から無断で台詞を「拝借」したという発言を行っていること、さらに『秋日和』における初老の男たちの「痒いところへ手の届かない感じ」という性的な会話が里見の小説「老友」からの引用であることなどを突き止めて反証する。質疑応答では、こうした宮本氏の発見を、これまでの小津論の文脈のなかでどう生かすかが議論された。とりわけ小津自身の「人間を描くことに失敗した」という趣旨の発言と非人間的に見える小津的世界との対比のなかで、この性的な台詞をどう見るかが大きな焦点として浮かび上がった。
続く閔愛善氏の「周縁的存在の民族誌としての映画──鈴木清順の映画を中心に」は、鈴木清順の映画作品に見られる「周縁性」、「漂泊性」に関して議論しようとするものである。閔氏はまず、鈴木清順のデビュー作『港の乾杯──勝利をわが手に』から始まって『関東無宿』、『河内カルメン』、『東京流れ者』、『殺しの烙印』、『ツィゴイネルワイゼン』、『陽炎座』、『春桜──ジャパネスク』、『オペレッタ狸御殿』といった作品を並べあげて行って、それらの作品のなかでやくざやギャングや門付けなど「周縁的人物」がいかに描かれているかを明らかにした。続いて後半では、鈴木清順作品の美的特徴に注目し、それが江戸時代の滑稽本や天明歌舞伎などと、土俗性と様式性の奇妙な総合として類似性が見られることを指摘した。質疑応答では、報告のなかで並列的に使われた「民族誌」と「民俗学」という二つの概念が、歴史的な含意に注意を払う必要のあることなどが指摘された。
最後の榎本千賀子氏の「合わせ鏡の写真論──新潟県六日町今成家に伝わる写真をめぐって」は、男が一枚の錦絵を抱えてポーズを取る姿を捉えた、無名の撮影者による一枚の写真(ヴァナキュラー写真)から、幕末から明治初において日本の在村指導者層がいかなる文化として写真を受容していたかを推測していくというスリリングな報告であった。この写真が見つかった六日町が地芝居が盛んな地域だったこと、今成家のほかの写真でも自宅で芝居を演じている写真があること、この錦絵のなかの役者のポーズと絵を抱える男のポーズが類似していること、錦絵内の人物が「鏡」に見立てた円形で枠取られていること、これを撮影した人物の写真観を示す都々逸など様々な背景的な事実が示されるなかから、江戸的な文化のなかで受容された写真文化の演劇性とでもいうべき特徴が浮かび上がってきた。豊富な資料に裏打ちされた厚みのある報告に多くの関心が集まって活発な議論が行われ、そこから新しい写真史が展開されることへの期待が高まったところで議論は尽きた。
長谷正人(早稲田大学)
【発表概要】
「小津的」を構成するもの——小津安二郎・野田高梧による里見弴の著作拝借をめぐって
宮本明子(早稲田大学)
小津安二郎の『秋日和』(1960年)には、里見弴の短篇「老友」(1949年8月)の内容に一致する個所が存在する。旧友たちが交わす会話や個々の人物設定においてである。シナリオを執筆した小津と野田高梧は、『戸田家の兄妹』(1941年)をはじめとする複数のシナリオに里見の著作を「拝借」したことを公言していた。しかし今日まで、その具体的な「拝借」の実態が明らかにされたことはほとんどなかった。このようななかで「老友」は、彼らのさす「拝借」の源を具体的に示す事例といえる。
では、なぜそれほどまでに里見の著作は必要とされていたのだろうか。里見と同様に小津が愛読した作家に志賀直哉がいるが、小津は志賀の著作について積極的に語らなかった。『暗夜行路』との比較がなされる『風の中の雌鶏』(1948年)さえ、里見の著作を軸に制作されたという証言もある。小津や野田が里見の著作を拝借したと公言するためには、里見との信頼関係が、また相応の理由があったはずである。本発表では、前回第6回研究発表で掲げた前述の「老友」の事例を起点として、小津、野田による「拝借」の可能性がみとめられる里見の他の著作にも目を向ける。「縁談窶」(1925年4月)や「本音」(1938年7月)、「毛小棒大」(1940年7月)などである。小津をはじめ、出演者らの発言を手がかりとして、『戸田家の兄妹』以降、里見の著作が小津の映画に「拝借」されてゆく実態およびその理由を明らかにすることを試みる。
周縁的存在の民族誌としての映画——鈴木清順の映画を中心に
閔愛善(早稲田大学)
鈴木清順の映画は、周知のとおり日常というより非日常的である。この日常と非日常は、民俗学でいう民族の二つの捉え方、定住者と漂泊者、常民と旅芸人などの概念に対置できよう。そして清順映画の登場人物の多くは非日常に属する存在、いわば周縁的存在が描かれている。さらに『ツィゴイネルワイゼン』においては、定住と漂泊に喩えられる象徴的人物が二元的世界を示している。清順が所属していた日活のアクションジャンルにおいても非日常は好まれる題材であったが、それはあくまで日常における「事件」として扱われていた。清順の場合は、制限されたシステムのなかでの制作時からも映画の時間と空間の変容を試みてきたといえる。その特徴をもって描かれた世界は、「事件」としての非日常ではなく、時間と空間の非日常の世界になっている。またその世界の人物たちは現実性からかけ離れた、民俗における周縁的存在の面影を持つ。映画に示された人物は特殊職業者、漂泊者、無頼漢などを思い浮かばせる特徴と、性格の面ではある種の狂気性を見せる。その狂気性は周縁なる人々の傾向、たとえば現実に耐えられず放浪する、あるいは突然山に入るといった、日常から離脱する人々に繋がる。これらは自発、環境、遺伝などによる要因別にも分類することができるだろう。本発表は清順映画の重要作品の人物像分析を通じて日本の民俗学で言及された常民以外の存在を文化における周縁的存在として取り上げ、映画にどのように表象されているのか、民俗文化の構造認識として考察していきたい。
合わせ鏡の写真論——新潟県六日町今成家に伝わる写真をめぐって
榎本千賀子(一橋大学)
江戸期の新潟県六日町は、江戸と新潟を結ぶ交通の要所として人・物・情報が行き交う地であった。この地の旧家である今成家には、江戸の写真師、大鐘立敬より写真を学んだ今成無事平(1837~1881)らが幕末から明治初年に撮影した湿板写真と関連文書が残されている。
まとまった史料に乏しい在村指導者層における初期写真受容の様相を伝えるこの史料のなかに、男が錦絵を抱えて写る一枚の写真がある。この写真に写る錦絵に描かれているのは、鏡像として示された定九郎であり、男が錦絵を抱えるポーズは、写真以前に西洋から伝わった映像機器、写絵=幻灯をモチーフとした山東京伝『人心鏡写絵』(1796)に着想を得たものと考えられる。
この写真は、写真という新種の「鏡」によって、当時写真と競合していた技術であった錦絵が描く「鏡」を、幻灯という写真以前に西洋から伝わった「鏡」に触発された過去の想像力を参照しながら写し出す、合わせ鏡とも呼ぶべき構成をなしている。そして、この合わせ鏡は写真による一種の写真論として読むことができる。
本発表では、この合わせ鏡の写真論が写真という新たな映像技術をいかに捉えているかを分析することを通じ、あまり知られていない地方における初期写真史の一端を示す。また、木下直之『写真画論』等の先行研究によって、都市の有名写真師達の試みを中心に考察されてきた日本における写真と写真以前の視覚文化の関係性を、今成家史料の調査にあたった新潟大学地域映像アーカイブや、東京都写真美術館による「知られざる日本写真開拓史」プロジェクトなど地域に埋もれた資料を掘り起こす近年の研究成果から再考する可能性を考えたい。