第7回研究発表集会報告 | パネル1 |
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2012年11月10日(土) 10:30-12:00
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1
研究発表1:現代哲学の展開
存在論は政治的か?——ナンシー哲学における存在と政治
柿並良佑(慶應義塾大学)
音楽、あるいは神——映画『アワー・ミュージック』をめぐって
今村純子(東京大学)
【司会】宮﨑裕助(新潟大学)
「現代哲学」や「現代思想」という言葉は、20世紀後半に華々しい活躍を見せた何人かの思想家たちの固有名とともにすっかり馴染みのものとなった。だがそれにしても、彼らが次々にこの世を去り、時は絶えず流れていくなかで、「現代」とは一体何を意味しうるのだろうか。当パネル「現代哲学の展開」では、ジャン=リュック・ナンシーやシモーヌ・ヴェイユらの思想に焦点を当てて、現代哲学・思想分野における新たな展開を探ろうとした二つの発表が行われた。
最初に行われた柿並良佑氏の発表は、ナンシー哲学における「存在と政治の交叉」について検討を試みるものであった。氏によれば、ナンシーは初期から一貫して「共同性」を巡る存在論と「政治的なもの」(le politique)——経験的・現実的な「政治」(la politique)とは区別される、政治における本質的なもの——との連関について問題を提起している。ただし、その問題に関してある時期に一つの「転回」が行われている。すなわち、初期において「政治的なもの」は、共同なものの存在論のうちに書き込まれている一原理として思考されていたのに対し、「世界の他には何もなし」(2000年)で「自己批判」が行われた後では、「政治的なもの」は存在論的な次元から一歩退き、共同での存在に場所を与えるものとして思考されるに至る。このような「政治的なもの」を巡る位置づけの変化が、後期ナンシーに特徴的な「キリスト教の脱構築」や「民主主義」といったテーマ系の出現を準備したのではないか。柿並氏はこのように提題した。
続いて今村純子氏の発表では、シモーヌ・ヴェイユの思想を遠景に置きながら、ジャン=リュック・ゴダールの映画作品『アワーミュージック』(Notre musique)を分析する試みが行われた。氏によれば、ヴェイユは「音楽」のうちに「不在」というあらわれしかもちえない神の「沈黙における声」を映し出す役割を見ている。このような音楽論を背景に、今村氏は「私たちの音楽」と題されたゴダールの作品におけるヴェイユの痕跡を描き出していく。たとえば氏は、同作に登場する三人の実在作家のうちの一人、マフムード・ダルウィーシュの次の台詞に着目する。「自らの詩をもたない民族は強くなることができるだろうか」。歴史は勝者によって語られる。しかし、今村氏は問う、生を生たらしめるような「詩」をもって、敗者によって書かれる歴史もあるのではないか。勝者と敗者のあいだの沈黙から、別の歴史を書く「詩」が紡がれる。その瞬間にこそ、沈黙から始まり、沈黙に帰還するヴェイユ的な「音楽」が不可避的に要請される。「わたしたちの音楽」とは、たとえばパレスチナ人とユダヤ人のあいだの「無限の距離」においてこそ調和を奏でる音楽のことではないか。
その後の質疑応答の時間では、会場から積極的に有益な質問が多数提起された。柿並氏には、ハイデガーにおける「アレーテイア」としての真理の問題とナンシーの思考の連関について問いが提起されたが、これに対して氏は、ナンシーは「隠退retrait」というハイデガー由来の語を、政治的なものを巡る思考に応用したと言えるのではないかと応答した。また今村氏には、『アワーミュージック』において実際に用いられる具体的な音楽が、ヴェイユの観念的・抽象的な「音楽」論といかに接合されるのかという問いが提起され、「沈黙」の概念などが再検討された。その他の質疑も非常に有益ではあるが答えがたいものであり、限られた時間の中では議論を十分に掘り下げるには至らなかった点が惜しまれる。
「現代哲学の展開」と題された本パネルでの二つの発表テーマは共約しがたい分岐を示しており、現代哲学において成立しうる問いの多様性が明かされていると言える。しかし他方で、司会の宮崎裕助氏や会場からも問われたが、本パネルでは図らずも宗教や神の問題が通奏低音として響くこととなった。「ライシテ」という単語が会場を飛び交う瞬間もあったように、現代において宗教や神への問いは重要性を増している。短い時間の中で十分な議論がなされたとは言いがたいが、現代哲学・思想の新たな展開についての一つの可能なパースペクティヴを呈示しえた点に、当パネルの意義を見出すことができるだろう。
横山翔太(東京大学)
【発表概要】
存在論は政治的か?——ナンシー哲学における存在と政治
柿並良佑(慶應義塾大学)
フランス語圏の哲学・思想分野における近年の動向として、ボヤン・マンチェフら比較的若い思想家が、バタイユ、ブランショ、ナンシーら前世代の思想を継承・活用して、多様な差異を抹消するシステムとしての現代資本主義に抗う文化理論を提示していることが挙げられる。その際マンチェフは、特にナンシーが提案する「世界」概念や「物質」概念の刷新を核とする存在論をラディカルな政治理論と規定することで、変貌する世界そのものが内に秘めている革命性を明らかにしようとしている。このような活用はいわゆる「脱構築」や「ポスト構造主義」の理論のいまなお追求されるべき有効性を高らかに宣言してみせる一方で、存在と政治の全般的な重ね合わせという極めて重要な問題に対してナンシーが示す理論的立場の変遷には触れていないという問題を含んでいる。したがって今一度、後者における存在論と政治(学)の関連について考察することが必要である。本発表の目的は、ナンシーの初期の仕事から現在までの政治に関する思考を概観しながら、それが彼の思想の屋台骨である存在論とその都度どのような距離を取り結んできたのかを明らかにすることである。さらにこの点を通じて「存在」と「政治」の相互的所属関係をめぐる問題、あるいは一方が他方に先行するのかどうかという問題を考えるための一定の視点を獲得することを目指すものである。
音楽、あるいは神——映画『アワー・ミュージック』をめぐって
今村純子(東京大学)
シモーヌ・ヴェイユ(1909~43年)は音楽のうちに、「無限の距離」に隔たれた神と人とのあいだに調和をもたらす役割を、あるいはまた「不在」というあらわれしかもちえない神の「沈黙における声」を映し出す役割を見出している。だからこそ歌は神を賛美するのに叶うのである、と。ジャン=リュック・ゴダール(1930年~)の映画制作には、シモーヌ・ヴェイユの思想からの影響が色濃く映し出されている。その影響が鮮烈にあらわれている映画『女と男のいる舗道』(1962年)から40年の年月を経て、ゴダールの作品においてシモーヌ・ヴェイユの思想はどのように息づいているのであろうか。『愛の世紀』(2001年)ではシモーヌ・ヴェイユの姿がはじめてスクリーンに登場する。だが一転して、『アワー・ミュージック』(2004年)ではシモーヌ・ヴェイユの姿や名前は消え、それらに代わってシモーヌ・ヴェイユの思想が織りなすイメージだけが十全にちりばめられている。『女と男のいる舗道』に見られる、カール・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』(1928年)におけるジャンヌと司祭のやりとりの場面もふたたび登場し、「フィクションの重層性」によるリアリティの創出の可能性が賭けられている。本発表では、シモーヌ・ヴェイユの思想を遠景に置きつつ、映画『アワー・ミュージック』においてゴダールが「わたしたちの音楽」として表現しようとしたものとは何か、そしてそれはわたしたちの「生の創造」をどのように促すのかを少しく見定めてみたい。