新刊紹介 | 単著 | 『岡崎京子論 少女マンガ・都市・メディア』 |
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杉本章吾
『岡崎京子論 少女マンガ・都市・メディア』
新曜社、2012年10月
副題が示すとおり、本書は岡崎京子の作品を少女マンガ・都市・メディアへの参照によって成立するテクストとして捉える。挙げられた項目はみな、岡崎論にはしかるべきものだろう。周知のとおり、この作家は東京に生きる少女たちの姿を、音楽や雑誌、映画といった諸メディアへの言及を通して描いてきたからである。しかし、本書がこれらのキーワードを選ぶのは、主題の整理を行うためだけではないようだ。それらは本書が採用する方法論にも深く関わっている。
少女マンガが少女ではない者によっていかに読まれ、語られるのか、と問題提起する第一章「〈少女マンガ〉をめぐる言説空間」は、ことのほか重要である。そこでは、男性読者だけでなく、女性読者もまた、自身の実存を少女マンガに反映してきたと指摘される。著者はこうした「反映論」的読解から慎重に距離を取りつつ、「表現論」に接近し、「反映論」が取りこぼす事象をすくいあげながら、相対すると思われるふたつの方法論を両立させる。この戦略は、少女マンガ・都市・メディアに対してベタからメタまでの多様な距離を取る岡崎作品において、功を奏する。
結果、80年代末の代表作『ジオラマガール パノラマボーイ』から、現時点での集大成『ヘルタースケルター』にいたる分析は、岡崎のマンガ表現が少女マンガ・都市・メディアについて繊細な言及を行ったものであること、そしてそれが社会の揺れと密接に連動していたことを明らかにしていく。
1996年、岡崎は交通事故に遭い、作家活動の中断を余儀なくされた。その事実は、岡崎が描く東京に魅せられた地方在住の一読者にとって、きわめて恐ろしいものであった。東京を主題とする作家が東京に呑まれてしまう。不条理でありながら、妙に辻褄があうようなこの事故について、いまでも冷静ではいられない。だがこうした感傷とは別に、その作品世界の豊かさを詳らかにする本書が刊行されたことは、作家が沈黙のなかでも生きていることを雄弁に示している。それはただただ嬉しいことである。(石田美紀)