第4回大会報告 研究発表パネル

7月5日(日)京都造形芸術大学 瓜生山キャンパス 人間館4階NA403教室

研究発表4:共感覚の地平——共感覚は「共有」できるか?

感覚のマイノリティ——共感覚と共感覚者をめぐるフィクション
北村紗衣(東京大学)

日本人共感覚者(海外在住経験者)の文字認知
湯澤優美(トランスコスモス)

共感覚の情報処理
斉藤賢爾(慶應義塾大学)

【コメンテイター】折田明子(中央大学)
【司会】門林岳史(関西大学)


共感覚synesthesiaとは、文字に色を感じたり、音に味を感じたりするなど、1つの刺激に対して2つ以上の感覚が同時に起こる知覚経験である。近年、脳神経科学の視点から共感覚を論じたシトーウィックの著作など、書籍の刊行が相次ぎ、多方面の関心を呼び起こしている。本パネルは、最近の共感覚研究の成果が持つ人文科学的含意(共感覚が人間の心や言語・芸術において果たす役割など)を提示する一方で、人文科学が共感覚に対する理解(「科学的」理解、「文学的」理解、等々)に批判的に介入する場として設定された。そうした学際的交流の目論見は、十分に達せられたといってよいだろう。

パネルは、司会の門林氏が共感覚と人文科学の接合点を整理し、次いでパネル企画者の北村氏が共感覚についての一般的な解説とパネル企画の経緯について語るところから始まった。これは共感覚自体に不案内な多くの聴衆にとって有益であったと思う。北村氏によれば、このパネルはネット上の共感覚者コミュニティのオフ会をきっかけに組織された由。そこで、パネル構成者の大半が共感覚者という、きわめて珍しい学会発表が実現した。北村氏によれば、インターネットの普及が共感覚者の存在を社会的に可視化する役割を果たしているのだそうで、このパネルの成立自体がその一例というわけだ。

北村氏による最初の発表は、「感覚のマイノリティ」である共感覚者が直面する表象の政治を論じるものであった。感覚間の壁を超えてしまう共感覚は、ときには人間の理性を侵犯する狂気や妄想として非難され、ときには理性の閾を超える創造性の源泉として賞賛されてきた。いずれにしても、共感覚者は、一種の怪物(理性的存在に対する異常な存在)として表象される傾向を持つ。北村氏はそのことを、19世紀以降の様々なフィクションにおける共感覚者の描かれ方(フランケンシュタインの怪物から涼宮ハルヒに至るまで)を分析することで例証し、現実に存在するマイノリティとしての共感覚者に対する偏見を助長する表象の暴力を問題化した。一連の分析は、手際よく具体的な資料を提示しつつおこなわれ、説得力があった。

さらに氏は、「オーラが見える」などと一見非科学的な経験を語る者が、実は共感覚者であって、自分が経験している共感覚をオーラ等々と誤認している、といったケースがありうると指摘し、非共感覚者が「科学的」な態度で安易にそうした感覚経験の語りを非難することを戒めた。北村氏によれば、「世界は全ての人に同じように見え、聞こえ、感じられているはずだ」という思い込みは、共感覚者の存在によって相対化されるはずである。これは、オカルト批判やニセ科学批判に対する、穏当な批評たり得ていると思う。

最後に北村氏は、共感覚者による知覚のあり方を活用して芸術作品を読み解いていくような批評の可能性に触れたが、それまで展開された議論とは別の主題というべきで、若干唐突な印象を筆者は抱いた。それはそれとして十分な議論を聞いてみたいというのが正直な感想である。

続く湯澤氏の発表では、共感覚者に関する心理学の事例研究の報告がなされた。氏は、オランダ在住経験のあるひとりの日本人共感覚者を対象にして、ひらがな、カタカナ、及びアルファベット(英蘭語それぞれとしての)を目にしたときに感じる共感覚の比較をおこない、文字に対する共感覚(特に色の感覚)の形成に、視覚像、聴覚像、文字の概念的意味などがどう関与するのかという問題を検討した。結論としては、(1)色の感覚は文字の像や意味「から」発生するというよりは、文字そのものが同時に色として経験されている。(2)言語を学習した順序が共感覚のあり方に影響を及ぼす。

もっとも、こうした結論よりも、本発表で聴衆に強い印象を与えたのは、共感覚のあり方が個人においてかくも独特で複雑な経験の相を持つという事実であったろう。「筆記体では光がやわらかい」「iとoは後方から光がさす感じ」「アルファベットの色彩の違いでオランダ語と英語の違いを認識する」「20から29の間では色が空中を旋回している」といった経験記述のいちいちに、新鮮な驚きと興味を覚えたのは、筆者だけではあるまい。おそらくこうして語られる共感覚経験の多様性――すなわち共感覚者ひとりひとりの個別性――にこそ、言語と知覚をめぐる本質的な問題が潜んでいるのだ。コメンテイターの折田氏や、会場からも、この点について質問が寄せられ、湯澤氏自身も、「共感覚」とひとことでくくることの難しさを繰り返し表明していた。

最後の発表者である斉藤氏は、ラマチャンドランらの議論を参照しつつ、計算機科学の立場から、脳の情報処理モデルで共感覚をどう理解すべきかを論じた。共感覚が主観的意識に現象するクオリアであるかぎり、いわゆる「意識のハードプロブレム」に含まれるものとして現在の情報処理モデルでは太刀打ちできないように見える。しかし実験により、感覚入力の相互干渉が起こる水準(おそらくは共感覚が発生する水準)は、意識にのぼって認知されるより手前の、脳の情報処理モデルで記述可能な低次のレベルであるらしいことがわかってきた。そうであるならば、共感覚が適切にモデル化されて脳内プロセスとして理解できる可能性は十分にあるだろう、というのが斉藤氏の見立てである。

さらに斉藤氏は、神経ネットワークがごく単純なニューロン発火の連鎖で成立していることから考えて、ある感覚入力に別の感覚がともなうことはむしろ当たり前に起こりうることを示唆した。すなわち、共感覚者が感覚に余計な感覚を「付け加えている」のではなく、「普通の」人々が、意識の高次のプロセスにおいて、しかるべく限定された感覚以外を「取り除いている」と考えるべきなのかもしれない(これは会場からの質問者の言い方によるが、斉藤氏も同意した)。こうした見方は、折田氏も述べたように、共感覚者と非共感覚者を地続きの存在として理解するための足がかりとなるであろう。

以上の発表をふまえ、コメンテイターの折田氏から、共感覚への偏見を克服する道すじ(北村へ)、共感覚者の経験の語りを翻訳する困難(湯澤へ)、共感覚者の知覚を非共感覚者と共有するためのインターフェースの可能性(斉藤へ)、の三つ質問が提示され、発表者による応答がなされた。引き続いて会場からひっきりなしの質問が各発表者に投げかけられた。その一つ一つを紹介する余裕はないが、質疑の熱心さから、このパネルが発表者にとっても、会場のおそらくほとんどは共感覚の存在すら知らなかった聴衆にとっても、大きな刺激となったことが明らかであった。この問題に潜む哲学的射程の深さを思えば、当然ともいえる。

パネルの副題にある、共感覚は「共有」できるか?という問いは、共感覚者と非共感覚者の相互理解ということに加えて、共感覚についての理系の発想を含むパネルが、表象文化論学会という芸術系の学会において成立するのかという、チャレンジの表明でもあっただろう。繰り返すが、目論見は十分に達せられた。昨年度の精神医学パネルに引き続き、どうやら、非人文系のパネルは成功するという伝統ができつつあるようである。こうした流れを、大事にしていけたらよいと思う。

北村 紗衣

湯澤 優美

斉藤 賢爾

折田 明子

門林 岳史


横山太郎(跡見学園女子大学)


発表概要

感覚のマイノリティ——共感覚と共感覚者をめぐるフィクション
北村紗衣

共感覚者が人口に占める割合は未だに判明していないが、おおむね2000人に1人程度という推測が有力であり、人数の点では非常に少ないと考えられている。共感覚者は多数派である非共感覚者とは異なる方法で世界を知覚している、いわば感覚のマイノリティであると言える。本発表においては、共感覚研究にマイノリティ研究の側面があることに留意しつつ、共感覚と共感覚者がどのように文学作品の中で表象されているかを分析する。

ロマン主義の時代以降、文学において共感覚は独創的な言語感覚の源泉として神秘化され、シェイクスピアやナボコフ、ランボーなどに見られる共感覚的な比喩表現が称揚されてきた。一方で怪物が共感覚を持つ存在として描かれているメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』や、近年のデイヴィッド・マドセンの作品のように、共感覚を「異常性」のしるしとして登場人物に賦与する傾向もあり、これは共感覚がしばしば医学などの分野で病や障害の一種として否定的に見られてきたことを反映していると考えられる。今回の発表においては、マイノリティの当事者性を重視する文芸批評として既にある程度蓄積のあるクィア批評やフェミニスト批評、障害学批評を参照し、自身も共感覚者である発表者が文学研究において共感覚という出発点からいかに寄与できるかという点についても考えつつ、メディアに流通する共感覚の表象を批判的に検討することとしたい。

日本人共感覚者(海外在住経験者)の文字認知
湯澤優美

英語を母国語とする共感覚者を対象にした共感覚研究、特に文字(アルファベット)から色を感じる共感覚に関する研究は数多い(Ward J, Li R, Salih S,Sagiv N. 2006など)。しかし日本人を対象とした共感覚研究の蓄積は必ずしも十分ではない。

特に日本人共感覚者で海外在住経験のあるものの研究は例を見ない。そこで本研究では海外(オランダ)在住経験のある日本人共感覚者を対象にして、日本語固有のひらがな、カタカナ及び、英語、オランダ語から感じる共感覚の比較をおこなう。ひらがな、カタカナは「同じ読みをするが、違う形態をしている文字」であり、英語、オランダ語は「文字(アルファベット)は同じだが、違う読みをする」という特徴より、以下2点を検討する。
①共感覚の形成は視覚に因るものか、聴覚に因るものか。もしくは両方の要因が混在されているのか
②共感覚は遺伝の研究等により先天的なものとされているが、学習による要因はあるのか

本研究のテーマはあくまでも事例研究のため、その人の個性による部分も否めないが、それぞれ個の共感覚者が感じている世界を明らかにすることにより、その人固有のものなのか、共感覚者全体に通じるものなのかを検討したい。また、数字、月、週に対する共感覚の様態を検討することにより、文字の音や形だけではない、文字の持つ「意味」である概念との関係性も合わせて検討したい。

共感覚の情報処理
斉藤賢爾

共感覚は、主に文字や数字、楽器音や和音など、文化的に確立した認知の対象が、実際にはそこにない、色や匂いや味などの感覚を伴って認知される感覚と考えられる。それについて考えることは、「意識のハードプロブレム」、すなわち、主観的な意識体験が生まれるメカニズムについて考えることに等しい。

脳は多細胞からなる情報処理器官である。各神経細胞は自律的に動作しているので、特定の細胞が他の細胞をコントロールしているというわけではない。したがって、脳の中では、自己組織化以外のことは起きていないと想定できる。脳の各所で局所的に起きている情報処理の総体が、感覚として、そして我々の意識として、立ち起こっていることには間違いない と言える。

我々の脳の中で行われていることは、局所的な情報処理間のせめぎ合いであり、その中で異種の感覚が競合し、あるいは混ざり合う現象が恒常的に起きていることは想像に難くない。それはおそらく、誰の脳の中でも起きていることであり、共感覚者の自覚があるかどうかは、それが意識に昇るかどうかなのだろう。本発表では、情報科学における、コンピュータネットワークによる自律分散協調システムと、脳内の神経ネットワークの対比から共感覚の現象を捉え、その必然性と成り立ちのメカニズムについて考える。