新刊紹介 翻訳 『精神医学と制度精神療法』

原和之、廣瀬浩司(共訳)
ジャン・ウリ(著)三脇康生(監訳)『精神医学と制度精神療法』
春秋社、2016年

本書『精神医学と制度精神療法』は、ラ・ボルド病院での革新的な精神医療の実践で知られるフランスの精神科医ジャン・ウリ(1924-2014)による、1955年から1973年までの主要論文を収めた論文集である。1976年に初版が刊行され2001年に再版をみた原書『Psychiatrie et psychothérapie institutionnelle』からの抄訳だが、もともと事典の項目として執筆された長大な第13章を中心として、著者が30代から40代にかけての時期に、どのような経験と思考を通じて「制度精神療法」の名で知られる臨床実践を練り上げてきたのか、その過程を多くの具体例を交えて生き生きと伝えるものとなっている。

精神の病はそれ自体としてあるものではなく、「病人」の入り込んだ環境ないし彼を「取り巻くもの」(第2章)によって形成される側面をもつとする考え方──ビルンバウムの所謂「病理形成性(pathoplastie)」──に基づき、ウリは治療を医師-患者の関係に局限するかわりに、それを枠づけてきた看護師、調理師、事務組織などを含む病院という「制度」、そこで成立する関係の総体、とりわけその硬直した階層的構造そのものに働きかけることで実現しようとする。その際キーワードとなるのは「脱疎外」(第1章)である。とはいえ旧来の「制度」からの解放を叫ぶだけでは足りない。それは苦しみを抱えたひとたちだけでなく、そうした人たちに手をさしのべようとする者をも無防備な状態で放り出すということであり、無責任の誹りを免れないだろう。また、現場と乖離した、通りのよい理想を掲げればよいというものでもない。ひとびとの「善意」に期待するだけでは不十分なのであって、ウリも言うとおり、「それしかない場合、善意はたいていの場合、危険なものとなる」(331)からだ。なにより必要なのは「制度」を、そしてそれが取り扱おうとする現実を把握し分節化する適切な仕方を案出し、それに基づいて「制度」の新たな構造化を模索するということであって、ウリは言語学や哲学、精神分析の領域における当時最先端の議論を導きの糸としながら、そうした作業を進めてゆく。制度を一つの「詩編」に見立てて読み解こうとする、一般言語学ないし詩学に由来する構想(第11章)や、集団の機能を新たな仕方で語るためにサルトルから導入された「〈集合態〉(le Collectif)」という語法(第4章)、さらにはそうした〈集合態〉における心的な力動の解明を可能にする装置としての精神分析理論──フロイトの「転移」とラカンの「要求」「幻想」「対象a」等──への絶え間ない参照(第5章、第7章、12章、14章)によって特徴づけられる彼の議論は、やがて「ミーティング」(第10章)や「クラブ」「アトリエ」「グループ」等を諸要素とする、「制度精神療法」の姿を描き出してゆくことになるだろう。

本書には、時にアイディアを求めて手探りで進み、また運動の退廃や混乱を目の当たりにして激しい言葉を書き付けもする、思想家のリアルな姿を伝える文章も収められている(第9章、第15章)。じっさい「制度」に手を加えることの「帰結」は想像以上に大きい。一つの変更は、まったく別のところに影響となって現れる。事務や管理組織の変更を行う際に、精神療法的アプローチを同時に変更しなくてはならないことはしばしば起きるし、事務機構の変更が治療的効果をともなうことすらあるとウリは言う(225)。しかしそうして伝統的な病院組織の階層性を手離すということは、いったい何を意味しているのか。「反精神医学」的な言説は、ここから一足飛びに医師の排除の主張に至るわけだが、ウリにとっては医師の現前は相変わらず重要だ(336)。ただし階層的構造におけるのとは異なった仕方で現前しなくてはならない、というわけだが(368f)(※1)、これは同時に、「制度」にかかわる他の人々のポジションの困難な再定義をも伴わないではいない。しかもその再定義は、それを明確に語る言語なしには、旧来の組織構造のもつ強力な慣性に抗する術をもたないだろう。

ウリが自らに課したのは、「制度」の変革と解放の方途を、それを読む読み方とそれを語る語り方をも含めて提示するという難事業であった。いわば「制度」の詩学の実現へ向けたその苦闘の末に、ウリは本書の終章の結びにおいて、彼をこの冒険へと引き入れた最初の確信、困難のなかにあって彼を支え続けた、根本的なクレドへと立ち戻る。

制度精神療法はしたがってまず、精神的事実をその「病理形成性」において検討する。こうした見方は、控えめにみえるかもしれない。しかし賢しらに考えたあげくの愚論に陥らないためには、これを堅持するほうが慎重なのだ。それは現実に即した仕事であり、こうして社会的疎外を方程式にすることにおいて、幾つかの不安定なポジションを保護しようとするものである。社会文化的な一大構築物の細かな亀裂を解釈することのうちで、私たちは惑星規模で広がっている隔離の罠を避ける希望を持ち続けることができる。これは何だかよく分からない、倫理的次元といったものを要求するのだが、その次元は、きっぱりと科学的な方法と結びつけられるときに、はじめて意味をもつようになるのである(370)。

こうして「倫理」から出発しつつ、これをあくまで「科学」──理性的で創造的な思考──と結びつけようとするウリのテクストは、精神医療の場の新しいあり方を模索する動きが関心をあつめている現代の日本において、あらためて読まれる価値をもつものといえるだろう。(原和之)

[脚注]

※1 制度精神療法の経験を踏まえつつ、階層化とは別の仕方で「制度」を支える〈他者〉とはいかなるものかいう問題に正面から取り組んだ以下の著作では、後期ラカンの性別化の議論が導きの糸となっている。Cf. Jean-Pierre Lebrun, Clinique de l’institution, Editions Erès, 2008.

千葉雅也・大橋完太郎・星野太(翻訳)カンタン・メイヤスー(著)『有限性の後で』人文書院、2016年1月