トピックス 3

UTCPワークショップ「バートルビー再考」/シンポジウム「文学における諸形象」

1)ワークショップ「Bartleby Revisited」(全2回)

  • Speakers:
    • Kamelia Spassova (Sofia University), Maria Kalinova (Sofia University)
    • Kai Gohara (University of Tokyo), Futoshi Hoshino (University of Tokyo)
  • 日時:2015年12月17日(木)15:00-16:30、18日(金)17:00-18:30
  • 会場:東京大学駒場キャンパス101号館2階研修室

2)国際シンポジウム「Literary Figures」

  • Speakers:
    • Darin Tenev (Sofia University) - The Philosophical Status of Literary Figures
    • Kamelia Spassova (Sofia University) - The History of the Term Figura in Auerbach
    • Maria Kalinova (Sofia University) - Human Being’s Last Word
    • Riyako Yamaoka (University of Tokyo) - The “Thousand Eyes” of Nietzsche according to Sarah Kofman
    • Hanako Takayama (University of Tokyo) - Blanchot and the Threshold of the Inaudible
  • Moderator: Futoshi Hoshino (University of Tokyo)
  • 日時:2015年12月19日(土)13:00-17:00
  • 会場:東京大学駒場キャンパス12号館1階1212教室


昨年12月、東京大学駒場キャンパスに於いて、ブルガリアのソフィア大学の研究者とUTCPを中心とする東京大学のメンバーとの合同で、ワークショップ「バートルビー再考」、シンポジウム「文学における諸形象」が開かれた。一連の企画は、2013年秋のソフィア大学での催し以来の三回目の集まりである。なお、テーマ設定については、ソフィア側から事前に伝えられたそれぞれの発表概要にFigureにかんするものが多かったためだと報告者は聞いている。

WS1日目では、カメリア・スパソヴァ氏がBartleby’s Placeという書籍を手掛かりに、バートルビーを「できればしたくないのですが」に還元せず、ほかの決まり文句(formula)も取り出せるのではないかと提起した。つづいて郷原佳以氏が、ジゼル・ベルクマンの『バートルビー効果』(2011)を紹介し、これまでの哲学者たちの関連言説や神話との類似を整理した。2日目は、マリア・カリノヴァ氏が、バートルビーとビリー・バットに意志と否定的抵抗という共通項を抽出し、後者にも決まり文句が読めることを提案したほか、アーレントを援用し「バートルビー!ああ、人間!」という最後の言葉を再読した。つぎに星野氏が、エンリケ・ビラ=マタス『バートルビーと仲間たち』(2000)とその英訳において、バートルビーが複数形で扱われメルヴィルもその一人とされていること等を確認した。

両日の質疑応答では、コピー可能性、ホワイトボードの比喩、書くことをあきらめるという現代的意識の事後性、ド=マンのアレゴリーとの比較検討等、さまざまな問題提題がなされたが、なかでも、なぜある文学作品からフィギュールを抽出しジャンルの異なるテクストに移せるのかが幾度も問われ、テネフ氏はまさにそれがtransfigurationであると述べていた。フィギュール、トランスフィギュレーションといった語が、概念をはじめとする諸用語のあいだにどう位置付けられるかの批判検討が、最重要と痛感された事柄のひとつだろう。

3日目のシンポジウムでは、英語発表が5本なされた。

スパソヴァ氏は、専門のギリシャ哲学をベースとしつつ、自己範例の過程を含有する文学的形象化にたいしての哲学的形象化を、エーリヒ・アウエルバッハのフィグーラ論や、とくにドゥルーズ、ガタリにおける概念的人物を導入しつつ、プラトンの『ソピステス』の具体的な分析から再考した。その後、ヘーゲルのシステムとの比較、哲学者とソフィスト、詩人の区別とその教育について質問が出された。高山は、ブランショのセイレーン神話読解がマラルメにおける「諸言語の欠陥と贖い」に重なるという仮説から、歌の「聞こえなさ」が雑音中での聴取にも通じることを明らかにした。質疑応答では、歌とレシ、詩の関係、聞こえるふりをすること、オデュッセウスが事後的に詩人になること、カフカの寓話との比較検討の必要性等が指摘された。カリノヴァ氏は、ラカンのex-sistenceやヴォロシーノフの議論を整理しつつ、主にはバフチンにおける自己についてのスピーチを行うフィギュール、自己定義の問題を分析検討することで、自己と外部、西洋における人類の最後の言葉という定式を問うた。質疑応答では、ラカンのメトニミーと欲望の問題、対話の枠組の中で定式をどう捉えられるのかということ、クリステヴァの間テクスト性(inter-textuality)との関連、バフチンの理論における作者(author)の立ち位置について質問がなされた。山岡利矢子氏は、サラ・コフマンの『ニーチェと隠喩』(1983)の視覚をめぐる記述を整理した上で、最後、デリダのニーチェ論にみられる「他者」がコフマンには存在しないという指摘をした。これにたいして、1972年以降のニーチェ関連イベントとメタファーの問題、フィギュールと五感のかかわりを検討する必要性が指摘された。最後、テネフ氏は、修辞学的比喩形象と虚構的人物という二つの意味を確認した上で、カメリア氏、ボヤン・マンチェフ、そしてミシェル・ゲランの三者の思想をあげ、ふたつに分かつことなく、フィクショナルかつレトリックなものとしてフィギュールを思考することを提示し、哲学と文学の境界を進み続けること--transfigurability--をまとめられた。すべての総括であるかのようなこの発表の後、文学と哲学を分かたない手法を実践するブリュノ・クレマンの存在の指摘や、アレゴリーが最もイノセントなフィギュールなのかといった質問がなされた。

(シンポジウム風景写真:Kamelia Spassova氏提供)

以上、詳細のほとんどすべてを割愛したが、それぞれの議論は時間が足りなくなるほど豊かであり、フィギュールというテーマが掘り下げられただけでなく、各人の今後の研究に今回のテーマが深々と生きるものとなったと想像されることを付言しておく。

なお、イベント前後も話はつづき、音楽修辞学における作曲技法フィグーラの例から、視覚性に限定されない「彩(あや)」という日本語がしっくりくるという話、アイヌ語や漢字の読みの複数性(「字」という漢字は、音読みの「ジ」、訓読みの「あざ」にくわえて、人名用の「な」という難読をもつ等)から、書記システムの差異を再考する可能性も浮上した。近現代のドイツ語圏での議論の参照が不可欠との意見も出た。片仮名で「フィギュア」としてしまえばスケートか人形玩具が一般に思い浮かぶかもしれないが、想像以上にFigureをめぐる議論は古来根深く、かつ現代で刷新されており、文学・哲学を問わず広範囲にわたる議論を踏まえた思考の必要性と面白さが共有されたといえるだろう。

こうした少人数での数日開催は、参加者同士の理解が深まり、着想をその都度話し合える点が有益である。事前準備のためのリーディング・マテリアルが提示されていてもよかったかもしれないが、各自のスタイルが全面に出、予定調和にならない活気があったことが最たる収穫だったと報告者は考える。スポーツにたとえると、親善試合というよりも強化練習と呼ぶにふさわしいぶつかりあいが随所にあった。公開にもかかわらず外部参加者の少なさが惜しまれたが、ある共通のテーマに集中する稀有な機会だったことは間違いない。つぎがあるならばどんな出会いの場が生まれるのか、そのときにひとびとがどんなトピックを携えてゆくのか楽しみである。

はるばる駆けつけて議論を盛り上げてくださったフランス思想、東欧史、日本文学等の研究者のかたがたにあらためてお礼を伝えたい。そして、星野氏を筆頭に、企画準備にご尽力くださったすべての方々に、心からの感謝を申し上げたい。ソフィアの方々には、来てくれてありがとう、またお話をしましょうと何度でも言いたい。(高山花子)

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