トピックス 2

国際シンポジウム「美術批評とアジア──同時代性と植民地性」


  • 日時:2016年2月6日(土) 14:00-17:00
  • 場所:早稲田大学戸山キャンパス32号館1階127教室
  • パネリスト:
    • ケン・ヨシダ(カリフォルニア大学マーセド校)
    • パトリック・フローレス(フィリピン大学)
    • 千葉成夫(中部大学)
  • 司会:橋本一径(早稲田大学)
  • 主催:私立大学戦略的研究基盤形成支援事業「近代日本の人文学と東アジア文化圏──東アジアにおける人文学の危機と再生」
  • 共催:早稲田大学文化構想学部表象メディア論系


明治期以来の西洋美術の移入の苦闘は、絵画や彫刻などの具体的な作品のみならず、美術批評という形でも繰り広げられてきた。主にドメスティックな営みとして理解されてきた日本の美術批評は、アジアという視座に置き直してみたとき、そこに他のアジア諸国と共通する同時代的な問題意識を見出すことができるのではないだろうか。さらにはそうした批評の営みは、ポストコロニアルと呼ばれる現代において、「アート」とは何かという根本的な問いを、再び発するための手がかりを与えてくれるのではないだろうか。このような意図のもとに、『現代美術逸脱史』(1986)や『未生の日本美術史』(2006)などで戦後日本の現代美術批評を理論的に牽引してきた千葉成夫氏、アメリカにおいて日本の美術批評を研究するケン・ヨシダ氏、さらにフィリピン大学教授でありキュレーターのパトリック・フローレス氏の3名を登壇者として迎えたのが、本シンポジウムである。

「同時代の中の非同時代(The Uncontemporary in the Contemporary)」と題する報告を行ったケン・ヨシダは、遺体で漂着したシリア難民の少年をモチーフにしたアイ・ウェイウェイの作品を糸口として、「アートとは何か」という問いを今日において問いなおすことの重要性を主張した。遺体で漂着した少年の写真は「ジャーナリズム」であるのに対し、それをモチーフにしたアイ・ウェイウェイの作品は「アート」である。このように今日においても「アート」とそれ以外の境界は確実に存在するはずなのに、ポストコロニアルの時代に於いては、「何もかもがアート」とでも呼べるような状況が生まれている。とりわけ非西洋世界からの作品が活況を呈するアート市場は、かつてアートを西洋の独占物としてきた状況の裏返しでしかない。西洋と非西洋の間に存在したアートの境界線を有耶無耶にした現状にあって、「アート」と「アートならざるもの」の境界を問いなおすことの建設性を、ヨシダは主張する。そのような問いを問うてきたものこそが美術批評であるとしてヨシダは、石子順造らの批評の仕事を振り返った。

「「木に登るためには、ベルを鳴らし、ランプを吊るせ」。インスタレーションの衝動と、その名付けの問題(“To Climb Trees, Ring Bells, and Hang Lanterns”: The Urge or Installation and the Problem of Naming it)」と題する報告において、パトリック・フローレスが問い直そうとするのもまた、「アート」の普遍性が自明ではなくなった時代における「アート」についてである。フローレスが提案するのは、美術史の呪縛から離れて、人類学的な手法により、地域性と結びついた「イメージの理論」を構想することである。フローレスがその先駆者として紹介したのは、1970年代のフィリピンで、アーティスト・批評家・キュレーターとして幅広い活躍を見せたレイムンド・アルバノの仕事である(フローレスの報告のタイトルもアルバノの言葉からの引用である)。絵画ではなくインスタレーションに可能性を見出したアルバノの軌跡は、千葉成夫にとっての特権的な批評対象であった「具体」を想起させて興味深い。その上でフローレスは、ポストコロニアルの時代にあって安易に「土着性」に回帰する動きを、アルバノの試みと対比し、1820年代にはすでに西洋画の流派が形成されていたというフィリピンの特殊事情にも言及しながら、アルバノのインスタレーションが、西洋/非西洋の対立とは別の次元の地域性に根ざしたものであることを示した。

「美術批評の根拠・美術批評の言葉」と題された千葉成夫の報告は、『現代美術逸脱史』で彼が提唱した「類としての美術」という概念によって、今日でも参照される日本の美術批評の道標を打ち立てた千葉の、自らの批評の実践(プラクシス)の一端を披露してみせるものだった。言葉ならざるものを相手にする美術批評は、政治・社会状況への目配りに終始した「状況批評」に陥りがちである。この「状況批評」の罠を免れたとしても、作品を「物語」や「再現主義」に還元してしまう、第二の罠が待ち構えている。これらの罠を乗り越えて、作品そのものと向き合う試みを、千葉は「空間論」であると述べる。「類としての美術」という概念もまた、一つの「空間論」の試みであったという千葉の指摘は興味深い。このような「空間論」は、フローレスの提唱した「土着性」の問題とも共鳴するだろう。最後に千葉が挙げた例が、もはや美術作品ですらなく、静岡県浜松市の渭伊神社に遺る天白磐座の「イメージ」であったことは示唆的である。

質疑応答においては、ケン・ヨシダが提唱した「再周縁化」という興味深い概念について、さらにはアートとイメージを分け隔てるものは何なのかという、根本的な問いについて議論が交わされた。司会という立場にあったとはいえ、「美術批評」が、世代や地域を超えた新たな問題系を構成しうるものであることを垣間見せる場に立ち会えたことを、一聴衆として大いに喜ばしく思った。(橋本一径)