新刊紹介 翻訳 『有限性の後で』

千葉雅也、大橋完太郎、星野太(共訳)
カンタン・メイヤスー(著)『有限性の後で』
人文書院、2016年1月

本書は2006年にフランスで発行されたQuentin Meillassoux, Après la finitude. Essai sur la nécessité de la contingence の全訳であり、メイヤスーの単著の日本語訳としては最初のものとなる。本書におけるメイヤスーの立場は思弁的実在論と言われており、グレアム・ハーマンやレイ・ブラシエらとともに、2000年代以降の新しい哲学的立場を代表する人物として数えられている。

思弁的実在論のもつ哲学的射程については、訳者である千葉雅也や星野太らによる論考も含めて、すでに多方面から紹介されているので、ここで詳細を語ることは控える。このページでは、反カント主義的とも言われるメイヤスーの哲学的実践が、表象文化論といわれる学問的態度に対してどのような批判を迫るのか、という点についてごく簡単に素描してみたい。

カントの哲学は、時間と空間という直観の形式にしたがって対象についての表象を獲得することに基礎を置いている。すなわちそれは、現象を表象として受け取る表象主義的哲学である。表象されえない実在は、「もの自体」として現象界の外部に措定され、人間の理性的認識の限界を超えたものとして位置付けられる。この図式において、従来までの「表象/表象不可能性」という概念対は、感性と悟性の紐帯として表象を成立させる構想力の機能に帰着していた。

メイヤスーによる「原化石」や「祖先以前性」の概念は、このカント的前提を切り崩す。すなわち、──カント主義的な用語を用いるならば──表象不可能ではあるが思考可能な存在が、あらゆる表象の産出(すなわち現出)に時間的に先行して存在していたということを、メイヤスーの思考は明らかにする。ここにおける時間的先行性とは、カント的な形式としての時間とはまったく異なる「科学の時間」における先行性である。そこでは数学的な推論能力によって、表象不可能なものの計算可能性が担保されることになる。(ここからメイヤスーは、カント以前の独断論的形而上学において採用されていた理由律を批判することによって偶然性の哲学を打ち立てるが、それについてはここでは述べない。)

端的なまとめが不十分であることを承知で言うならば、メイヤスーが祖先以前性概念を通じて指摘したのは、フッサール的に言えば「厳密ではないが精密な」概念のみがもちうる正当性の領域である。わたしたちの言語や思考、あるいは想像力は、この領域でさえ再記述し、説明し、あらたな創造的思考へと転化することができる能力である、と証明することは可能だろうか? 数学的・物理学的・情報論的緻密さのただ中で、いま一度表象の理論が練り直されねばならないのだろうか? それともその他の道があるのか? 問いは尽きない。探求は続く。(大橋完太郎)

千葉雅也・大橋完太郎・星野太(翻訳)カンタン・メイヤスー(著)『有限性の後で』人文書院、2016年1月