第10回研究発表集会報告 | 研究発表6 |
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2015年11月7日(土) 13:30-15:00
東京大学駒場キャンパス21KOMCEE(East 2F-211)
研究発表6
「声-字-実相」の系譜学──近世日本における国学と密教の言語理論
井出健太郎(東京大学)
動物を訳す、文化を書く──ベネディクトにおける隠喩と引用の問題について
ロビン・ヴァイヒャート(一橋大学)
【司会】佐藤良明(放送大学)
井出氏の発表は、近世日本の言語思想を扱うものだ。真言密教をもとに言語の起源を自然史的、非−歴史的なものとして構想した契沖と、その影響を受けながらそれを反転させて、日本語を日本特有の歴史的起源を持つものとして構想した本居宣長。両者を対比させながら、井出氏はいわゆる「国学」に対する従来の理解——たとえば「近代の実証主義的文献学の先駆けである」といった理解——を離脱し、国学の形而上学的な相貌を描き出した。それは、絶対的な過去を措定することで詩や歴史や神話といったこの国の言語的輪郭を生みだしていこうとする、知の運動だ。
紹介された資料はいずれも興味深いものだったが、井出氏が資料批判を省略されたことは、時間的制約と聴衆の一般的関心を配慮してのこととはいえ、多少残念だった。たとえば、『和字正濫鈔』の「五十音図」について、従来の学説をふまえた詳しい検討を提示してくれたなら、それが言語が自然史的起源を持つことの表象であるという主張の説得力が高まっただろう。とはいえ、専門の文脈を共有しない聴衆に対してどこまで資料批判を繰り広げれば良いのかは、井出氏のみならず本学会共通の課題といえる。
質疑においては、契沖の言語論を宣長が反転させるロジックや、仏教以外の文化圏の神秘主義的言語論との比較の可能性について問いかけがなされ、この先の研究の展開を予期させる返答があった。近世日本思想の言語思想というテーマを、他領域に接続可能な問題として扱ってみせたという点で、本学会としても非常に意義ある発表だったと思う。
横山太郎(跡見学園女子大学)
ロビン・ヴァイヒャート氏は、ルース・ベネディクト『菊と刀』(1946)に引かれた忠犬ハチ公のエピソードの分析を通して、文字資料や映像資料のみによって「敵」を分析するという仕事に駆りだされた人類学者の置かれた、困難な状況を浮き彫りにしてみせた。今では読む者も少なくなってしまった『菊と刀』という書物は、「参与観察」によって対象を直接「見る」ことを自らの方法論としたベネディクトが、その方法論を封じられた状態で執筆するという、奇妙な成り立ちを持っている。ヴァイヒャート氏は、この書物の中に引かれたハチ公の逸話の、日本語と英語の細やかなニュアンスの違いに着目し、「犬」のように皇恩に報いようとする「日本人」のイメージが、翻訳によるズレの産物であることを明らかにしようとする。すなわち、「カヒヌシ」は「master」とされることで、原文には明らかな人間と動物の関係は、人間同士の主従関係に変換される。つまり「犬」は人間化されるのだ。さらには文末の、ハチの姿が駅前に毎日「見ラレマシタ」という表現が、「can be seen」という、可能を表す現在形に変えられることで、ハチの姿を周囲で見ていたはずの「日本人」の存在が排除される。つまり飼い主の死を知ってか知らずか毎日駅まで出迎えに来る哀れな動物に、いたわりの眼差しを向ける「日本人」は、恩を忘れない「犬」としての「日本人」に変換されるのである。さらにヴァイヒャート氏は、参与観察者としての人類学者の立場を「犬」になぞらえ、犬としての日本人像に、見ることを禁じられた人類学者ベネディクトの複雑な立場が反映している可能性も示してみせた。
橋本一径(早稲田大学)
【発表概要】
井出健太郎(東京大学)「「声-字-実相」の系譜学──近世日本における国学と密教の言語理論」
本発表は、言語と歴史性の関係をめぐる密教と国学の言説の読解を通じて、18世紀日本の文献学的探究がいかに「日本」の歴史性を表現しようとしたのか、批判的に明らかにする。
近世の東アジアでは、メタ言語的な考察にもとづく、古典テクストの文献学的な探究が同時に生起した。こうした広い文脈に配慮しつつ、発表では、真言密教を背景とする契沖(1640-1701)の言語理論を読解し、さらに本居宣長(1730-1801)によるその批判的継承を問うことによって、音声・書記の理論が分節化した「日本」の歴史性の構造を照射していきたい。
まず、近世の古典言語の表象作用の危機という文脈において、契沖のテクストが読解される。そこでは、法身の展開として言語をとらえる契沖が、非-歴史的な法の伝達の担い手として言語を位置づけ、自らの文献学的探究を正当化しようとしたことが明らかにされるだろう。また同時代の荻生徂徠(1666-1728)が中国詩学に拠って表現した強力な歴史性との対比において、契沖の枠組みが評価される。そのうえで本発表は、この二人の批判的継承を通じて、「日本」の歴史性を分節化する宣長の方法に接近していくことになる。特に、その方法が、神話的時間と歴史的時間の交錯する複層的な歴史性を描き出すものであったことを十分検討することにしたい。
以上の作業を通じて、「日本」をめぐる歴史の詩学の構造へ批判的な仕方で接近すること、それが本発表の大きな目標となる。
ロビン・ヴァイヒャート(一橋大学)「動物を訳す、文化を書く──ベネディクトにおける隠喩と引用の関係について」
本発表では、ルース・ベネディクト著『菊と刀』における一つの支配的な隠喩を検討していく。『菊と刀』では、人類学という学問の営みが繰り返して「視覚」という比喩で表現される。しかし、視覚に関わる語彙は、ベネディクト自身が記した本文中だけでなく、事例として引用される「ハチ公」の物語にも続発する。それはハチの行動を日本人のアレゴリーとして読むことを容易にすると思われる。だが、引用文とその元となる文章を比較すると、人類学的な方法を現す視覚の隠喩と、「民族誌的資料」からの事例の間のその修辞的な一貫性が、翻訳を通してしか成立しないことが分かる。つまり、「文化」の解釈は、翻訳によって、言葉の中に、すでに準備されているといえる。そしてそこで、逆説的に、日本人が動物であるハチと暗に同化されるのである。知覚・感覚や動物に関わる人類学的な理論を踏まえながら、引用としてベネディクトの「日本文化の型」に精巧に編みこまれていながらはみ出してしまう、このハチのイメージに焦点をあて、その物語の精密な読解によって、「文化」を説く文章のなかにひそんでいる余剰的な意味を抉り出していくことが本発表の試みとなる。