第10回研究発表集会報告 | 研究発表5 |
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2015年11月7日(土) 13:30-15:30
東京大学駒場キャンパス21KOMCEE(East 2F-212)
研究発表5
「ライン・身ぶり・共同体——フェルナン・ドゥリニィと地図作成の思考」 武田宙也(日本学術振興会)
「ジャン=フランソワ・リオタール『言説、形象』における芸術と宗教の関係」 渡邊雄介(早稲田大学)
【司会】星野太(東京大学)
言語なしでいかにして共に生きるか、言語なしで思考することは可能か──研究発表5のふたつの発表では、それぞれフェルナン・ドゥリニィ(Fernand Deligny, 1913-1996)[武田発表]とジャン=フランソワ・リオタール(Jean François Lyotard, 1924-1998)[渡邊発表]の思想が取り上げられながら、言語によるとは異なる共生と思考の可能性が、「身ぶり」と「形象」から探られた。自閉症児たちとの共同生活の実験的な試みで知られる教育者・作家のドゥリニィと、芸術から政治まで近代性を徹底的に再考した哲学者リオタールとでは、20世紀後半のフランスという時と場を同じくして活動した以上の接点を見いだしにくいかに思われるが、今回ふたつの発表が並べられることで、はからずも二人がともに言語のはたらきへの強い疑義を向けていたことが浮かび上がった。
わたしたちは言語で他者と意思疎通をはかり、自分の考えをまとめるのにも言語を使う。だが、言語を使用するがゆえに看過してしまっているもの、思考しそこなっているものがありはしないか。身ぶり・線・地図・形象・場といった視覚的なものは、言語によるのとは別の共生と思考の可能性を開く。そればかりか身ぶりや形象は、より積極的に、言語の限界を示し、言語を批判し、言語を破綻させさえする。ドゥリニィが身ぶりの地図作成を介して、言語的コミュニケーションをとりがたい自閉症児たちと築き上げた共同生活のありようは、たんに言語と異なるコミュニケーションというだけのものではない。むしろ言語への批判を通して、人間という種に共通する言語以前の共同性を、「地図」というかたちで可視化する。リオタールが西洋美術史の展開のなかにユダヤ教的な「形象の排除」からキリスト教的な「形象の抑圧」を経て形象が解放されていくさまをあとづけるとき、そこで言わんとされているのは、形象がたんなる物語の挿絵から自律的な美術になったということではない。むしろ言語・物語の破綻こそが形象の力であり、真理の開示だということである。ドゥリニィの実践もリオタールの思索も、たんに言葉とイメージの関係を問うのみならず、はっきりとイメージを言葉の破壊として位置づけるところに、その特異さがある。言語を破壊することによってこそ可能になる思考のかたち、共生のありようが存在するのだ。
考えてみれば、人間は誰しも言語をもたずして生まれ落ち、言語を獲得するまえに生き延びていく。言語中心主義への批判なるものは今日もはや聞き飽きたものと思え、言葉とイメージの関係を問う研究は枚挙に暇がないほど多くある。とはいえ、結局のところ人間が根本的に言語をもたない存在であるかぎり、問題はつねに繰り返し立ち戻ってくる──そう再認識させる研究発表であっただろう。
岡本源太(岡山大学)
【発表概要】
武田宙也(日本学術振興会)「ライン・身ぶり・共同体——フェルナン・ドゥリニィと地図作成の思考」
フェルナン・ドゥリニィ(Fernand Deligny, 1913-1996)は、20世紀フランスの作家・教育家である。その名は、1960年代後半からフランス南部のセヴェンヌ山脈一帯を舞台として実験的に繰り広げられた自閉症児たちとのコミューン的な共同生活と、そこから着想を得た多彩な活動によって広く知られるようになった。それらの活動には、エッセイや小説といった著作の執筆はもちろんのこと、映画制作、雑誌編集など幅広い分野が含まれるが、中でもドゥリニィの独創をよく表すものとして、また、同時期に活動したドゥルーズ=ガタリの思想に霊感を与えたことでも知られるのが、「地図」と呼ばれる特異な実践である。
本発表では、この地図の試みについて、ドゥリニィ自身の思想とのかかわりから考察してみたい。というのも、ドゥリニィの地図と、そこに描き出されたイメージには、彼が構想するところのオルタナティヴな存在様態(「言語とは別の仕方で」とでも表現できるような存在様態)や、さらには、こうした存在様態を基本とする共同体的な理念を読み取ることができるからである。また逆に言えばそれは、彼の思想が、これらイメージと不可分のものとして発展してきたということでもある。発表においては、ドゥリニィの用いる多様なキーワード相互の連関にも注意しつつ、この地図作成者のイメージ的思考の基本的な様態を明らかにすることを試みる。
渡邊雄介(早稲田大学)「ジャン=フランソワ・リオタール『言説、形象』における芸術と宗教の関係」
本発表の目的は、ジャン=フランソワ・リオタールの1971年の著作、『言説、形象』における「形象(figure)」概念を今一度考察し、問い直すことにある。『言説、形象』は、70年代のリオタールの主著として位置付けられ、重要な先行研究としては、Geoffrey BenningtonやBill Readingsによる示唆に富む議論がある。しかしこれらの「形象」概念の読解は、現象学の限界からフロイトの精神分析へという大きな基本的枠組みに沿って行われており、概説的な議論にとどまっている。言い換えるならば、リオタールの「形象」概念において今まで注目を浴びてきたのは、メルロ=ポンティの哲学を支える「知覚」構造における「図(figure)」概念のフロイト理論による脱構築という側面であった。
しかしリオタールの「形象」概念の多様な側面をとらえるならば、これと「エクリチュール」との関係も一考に値するであろう。というのも、この関係こそが『言説、形象』に登場する宗教についての議論と、芸術についての議論との関係性を解くカギであるように思われるからだ。本発表では、今までやや周縁的なテクストとみなされていた「欲望の『歴史』の一断章をめぐるヴェドゥ―タ」という美術史論に注目する。それによって本発表では、『言説、形象』における「形象」、「エクリチュール」(聖書を含む)、「欲望」の関係を明らかにし、リオタールの芸術論が、そのまま70年代の彼の宗教についての立場に直結していることを示す。