第10回研究発表集会報告 研究発表4

第10回研究発表集会報告:研究発表4|報告:杉山博昭

2015年11月7日(土) 13:30-15:30
東京大学駒場キャンパス21KOMCEE(East 2F-212)

研究発表4

李禹煥《関係項》における関係の在り方──石・鉄・ガラスとの「出会い」をめぐって
鍵谷怜(東京大学)

境界なきシアターの暴走──クリストフ・シュリンゲンズィーフを理論化する
セバスチャン・ブロイ(東京大学)

保存修復とX線の「暴力性」:キャサリン・ジルジュ《スザンナと長老達:修復後》(1998)をてがかりに
田口かおり(日本学術振興会)

【司会】加治屋健司(京都市立芸術大学)

研究発表4では、立体作品・パフォーマンス・絵画作品にかんする発表をとおして、芸術における重層性と政治性をめぐる考察が試みられた。

鍵谷怜は李禹煥の代表作である《関係項》について、各バージョンの作品写真を提示しながらその構造を読み解き、石・鉄・ガラスという異なる素材の組み合わせと力学を確認した。李によればこの作品の主題は、各素材の静的な「物」性にあるのではなく、動的な「事」性にある。上述の三種の素材は、各素材間で相互干渉を起こすだけにとどまらず、展示会場の床面をはじめとする周囲の環境や、ガラスに映り込む鑑賞者への働きかけも開始するのである。鍵谷は、李自身のテクストのなかから「出会い」と「ズレ」という概念に注目し、それをふまえることで複雑に交錯するこの働きかけのベクトルを整理した。さらにブリオーやビショップが論じた「関係性」やリレーショナル・アートの「関係性」と、李の《関係項》の「関係性」のあいだに広がる距離が検討され、このうちの後者は、現在でもなおアクチュアリティのある芸術の問題として捉えうることが指摘された。

セバスチャン・ブロイは、2000年6月にウィーン・カラヤン広場で上演されたクリストフ・シュリンゲンズィーフのパフォーマンス『お願い、オーストリアを愛して!』を取り上げ、理論的な考察を試みた。シュリンゲンズィーフはオーストリア自由党による移民排斥の主張を、劇場ではなく広場に具現化してみせた。リアリティ番組の形式を踏襲したこのパフォーマンスでは、実際の亡命申請者がパフォーマとなり、電話やネット上の投票で毎日ひとりずつ「追放」されていった。結果このパフォーマンスは、社会現象ともいえるほど大きな注目を集めることとなる。このパフォーマンスの構造を検討するにあたり、ブロイはフィッシャー=リヒテの「フィードバック循環」とボルターらの「リメディエーション」というふたつの理論を参照する。このパフォーマンス論とメディア論という異なるジャンルの理論に、アルトーの有名な「ペスト」のメタファを重ね合わせたブロイは、あらたに「バイラル・パフォーマンス」という概念を提唱する。この概念によってこそ、『お願い、オーストリアを愛して!』が発揮した爆発的な感染力は理解しうると主張された。

田口は、キャサリン・ジルジュ《スザンナと長老達:修復後》に焦点を当て、この作品を構成する一組の油彩画とX線透過写真が持つ意義を検討した。油彩画はアルテミジア・ジェンティレスキ《スザンナと長老達》の精巧な模写であり、それに添えられた写真プリントは、その複製画の表層の下に隠されたもうひとつの画面、すなわちより直接的で残酷な性的暴力の表象となっている。従来のジェンダー論的分析から距離を取る田口は、自身も修復士として携わる絵画の保存修復学の立場から、X線撮影の歴史を参照する。かつてX線撮影は、ストラッポという暴力的な「物理的発掘法」に代わる「光学的発掘法」を提供する画期的技術と歓迎されたが、実際は過剰な洗浄のエクスキューズとして利用された。その後X線撮影はドキュメンテーションの技術として科学的かつ倫理的に洗練され、現代では、不可視を可視に変換する根拠ではなく、不可視を不可視のまま保存する根拠となったと総括された。田口は最後に作品の「暴かれない権利」に言及し、X線撮影が依然として暴力性をはらむ事実に警鐘を鳴らした。

なおそれぞれの発表において、鍵谷発表では《関係項》1968年バージョンの作品写真の取り扱いについて、ブロイ発表ではカラヤン広場に殺到したデモ隊の政治的傾向について、田口発表ではX線調査と洗浄論争の相関について司会から事実確認がなされた。

その後行われた質疑応答では、おもに重層性と政治性が焦点となった。芸術の重層性については「《関係項》の「関係」は「項」を形成するマチエールといかにかかわるのか」「李自身の「ズレ」の解消を目指すという言葉と作品に内在するとされた「ズレ」はいかにかかわるのか」「シュリンゲンズィーフの「ストレス彫刻」とヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」はいかにかかわるのか」「作品タイトル《修復後》の「後」という表現が、作品解釈をいかに複数化させているか」といった問題が提議された。政治性については「「もの派」という動向と李の態度」「カラヤン広場という会場選定の経緯」「個々の作品鑑定と国家的な洗浄介入を仲立ちするX線調査」といった問題が提議された。

このふたつの焦点を往還する議論は、あらたな「ズレ」「フィードバック」「暴力」を浮き彫りにし、さらなる研究の展開を感じさせるものとなった。またそれは、かならずしも一致することのない「作家の意図」と「作品の射程」をそれでも接続しようと試みる際に、各発表者が参照する理論の精度や文脈の強度があらためて試される場でもあった。そこで報告者が感じたのは、複数の公共圏や可視化の暴力といった参照項のしなやかな有効性である。当研究発表は、作品を取り巻くさまざまな力を過剰に図式化することなく、その複雑さを保持したまま語る三つの試みであった。この試みは、質疑応答において交わされたフロアとの活発な討議において、成功を収めたのではないかと感じた。

杉山博昭(早稲田大学)

【発表概要】

鍵谷怜(東京大学)「李禹煥《関係項》における関係の在り方──石・鉄・ガラスとの「出会い」をめぐって」
「もの派」の一員として、制作と美術批評を並行して行なった李禹煥の代表作《関係項(改題前:現象と知覚B)》は、同サイズのガラス板と鉄板を重ね合わせ、その上に巨大な石を落とすことでガラス板に亀裂を入れるという作品である。1968年に初めて制作されて以来、たびたび再制作されている。本発表では、彼の芸術論と照らし合わせながら、《関係項》で示される関係の在り方について捉え直す。

1971年の李の芸術論集『出会いを求めて』の題にもみられるように、彼の制作の中心概念は「出会い」であり、芸術作品はそれを喚起するものと考えられている。抽象的で曖昧な「出会い」という語は、実際は作品に対する鑑賞者の姿勢を探求する作家の意図を示すものである。

《関係項》では、この「出会い」の概念が石・鉄・ガラスという三つの素材の接触から生じる緊張関係によって具現化されており、本作の特色はこの緊張関係が解消されずに放置されていることにある。これは作品の非完結性を示しており、作品を補完する存在としての鑑賞者をつねに必要とする。すなわち本作は、鑑賞者に「出会い」を持続的に経験させるために、作家が仕掛けた一つの装置である。それゆえ、本作が《関係項》と改題されたことの意味は大きく、美術を通じて関係性の構築をめざす作品の嚆矢といえる。発表では、《関係項》における関係性が作家/鑑賞者間に限らず、無機物との関係にまで広がっているという点を検討する。

セバスチャン・ブロイ(東京大学)「境界なきシアターの暴走──クリストフ・シュリンゲンズィーフを理論化する」
本発表では、クリストフ・シュリンゲンズィーフの作品『お願い、オーストリアを愛して!』(2000年)を例に、パフォーマンス論の基礎問題を検討する。圧倒的な扇動効果を発揮し、ウィーンの公共圏を一週間ほど騒然とさせた同作品の美学=力学を捉える上では、「ライブ空間」での局所相互作用に限定される従来パフォーマンス論の概念装置は十分に機能しない、ということが論考の出発点である。これを踏まえ、アルトーの『演劇とペスト』やボルター=グリシンによる「リメディエーション」の概念を補助線として上演の特殊な場面を参照しつつ、この上演が都市の「ライブ空間」のみならず、むしろ多様なメディア環境との接続/連携の上で、まるで自己増殖する「ヴァイラス」のようにオーストリア社会の共同体に侵食し、大幅な観客動員をもたらした経緯を理論的に説明する。この方法によって、2000年代におけるメディア・パブリックの構造転換を背景に、不特定多数の客層に向けて演出された「スキャンダル」的作品を「炎上」させ、アナログ/デジタルの両圏に届かせたシュリンゲンズィーフの舞台が、新たな複製技術時代を迎えた上演作品としてもつ歴史的意義も明らかにされるだろう。

田口かおり(日本学術振興会)「保存修復とX線の「暴力性」:キャサリン・ジルジュ《スザンナと長老達:修復後》(1998)をてがかりに」
修復士としてのキャリアをもつキャサリン・ジルジュ(1945-)の《スザンナと長老達:修復後》(1998)は、アルテミジア・ジェンティレスキ《スザンナと長老達》(1610)の模写をX線撮影した作品である。彩色層下には、ナイフを手に怒り叫ぶスザンナの架空の下絵が描きこまれており、二人のスザンナが写真上で亡霊のごとく交錯する仕掛けとなっている。暴挙に抵抗するスザンナの姿は、保存修復史上におけるもうひとつの「暴力」、すなわちオリジナルの下絵等の再発見を目指す過剰な介入の根拠としてX線が用いられた時代を想起させよう。1920年代以降、X線は、目に見えない下層を可視化する近代的な技として、ロンドンのナショナル・ギャラリーを中心に採用されてきた。しかし、当時の光学調査が洗浄への熱意を煽り、美術史家H.アルトヘーファーのいうところの「修復のための宣伝活動」と化して横暴な介入を推進したことは看過できない事実である。本発表は、冒頭の作品とキャサリン・ジルジュへのインタビューを一契機とし、光学調査がある種の「暴力」として表出したさまを、西洋近代の洗浄事例分析を軸として明らかにするものである。さらに、保存修復の基盤である可逆性の概念と親和性を示していたX線撮影が、結果として徹底的に不可逆な介入である洗浄を後押ししたねじれの過程を明示する。上記の考察をふまえ《スザンナと長老達:修復後》へと立ち返り、本作と保存修復に内在する課題の連関を考察したい。