第10回研究発表集会報告 | 研究発表3 |
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2015年11月7日(土) 10:30-12:00
東京大学駒場キャンパス21KOMCEE(East 2F-211)
研究発表3
文学場のハビトゥス──19世紀フランスにおける鏡表象をめぐって
山本明美(神戸大学)
『新百科全書』──サヴィーニオの私家版百科全書をめぐって
野田茂恵
【司会】石橋正孝(立教大学)
文学において全体性の表象が理想として標榜される際、ロマン主義時代(19世紀前半)のフランスでは「集光鏡」が、1940年代のイタリアでは「イデオロギーとしての百科全書」が、あるべき作家主体と作品のモデルをそれぞれ提供していた。本パネルで取り上げられた二人の作家──スタンダールとアルベルト・サヴィーニオ──は、前者が「集光鏡」を「平らな普通の鏡」に置き換えることで同時代の支配的な美学をずらし、それに応じた実作を試みたとすれば、後者は、百科全書から形式のみを借用し、断片の錯乱を通じて思考の自律性を解放しようとした。
最初に発表した山本明美は、バルザックやユゴーを始めとするロマン主義の作家たちが、作家主体としての自らを、世界を集約する「集光鏡」になぞらえ、外界をフラットに「映す」だけで事足れりとせず、言葉による「飾り」という形で、世界を自らの内に再創造する神=作家主体を刻印しようとしたのに対して、そのような超越的介入によらず、あくまで「平らな鏡」に映る諸事物の拮抗関係によって、大聖堂の円蓋のように支えられる作品世界を理想としたスタンダール像が示された。『エゴチスムの回想』の著者が、フランスでは「ロマン主義」という語のいわば起源に相当する存在でありながら、かといって写実主義にも分類しがたく、同時代の「文学場」においては元より、文学史の上でも「孤児」のような立場に自らを追い込んでいる所以の一端をここに窺うことができる。
他方、ファシズムに支配された1940年代のイタリアにあって、シュールレアリスムの画家ジョルジョ・デ・キリコを兄に持ち、本人も画家、作曲家、作家として多彩な活動を展開したアルベルト・サヴィーニオの代表作『新百科全書』に焦点を当てたのが、続く発表者の野田茂恵である。サヴィーニオによれば、合理主義に基づく知の全体化を標榜する百科全書の理念は、正しいと判断された情報を空間的に囲い込み、不動の真理として凍結、論敵から思考の自由を奪い取らんとする。『新百科全書』は、百科全書的囲い込みから零れ落ちる要素──ふざけた冗談、大真面目な議論、勘違い、矛盾、偶然等々──を拾い集め、題材やトーン等の一貫性を攪乱する雑多な思考の戯れに巻き込まれていく。
会場からは、鏡表象を核として影響力のある書き手の間に共有された文学観を指して「文学場のハビトゥス」と規定することが、一般的な用法を逸脱しているように思われる点が指摘された。また、ロマン主義作家の念頭にあった「集光鏡」とは、当時の技術史的文脈において具体的にはどのようなものだったのか、という疑問が投じられた。サヴィーニオに関しては、1940年代という時代状況との関連、また、遙か後年の単行本化がアデルフィ社によってなされた事実の意味が問われた。
最後に個人的な感想を付け加えさせていただければ、ロマン主義者とは異なり、スタンダールが理性を重視したと山本氏が言う場合の「理性」とは、彼が作中に成立させる二項対立──その中には、理性と想像が含まれる──を超えた、単なる合理主義には留まらない精神の自由を指しているはずだ。それは、百科全書に体現される全体性への希求に、合理主義が暴走して非合理に転じる契機を見ていたサヴィーニオの問題意識にも通じるだろう。とすれば、気になるのは、バルザックがその百科全書的小説連作〈人間喜劇〉によって、文学上のアヴァンギャルドによって担われることのある課題のひとつたる全体性の追求の淵源に位置すると考えられなくもない事実である。野田氏は、サヴィーニオは思考と行動における自律性を求めた点で、同時代のアヴァンギャルド運動の中では特異な存在だったと述べる。単に運動の一員に求められる一定の統一性を拒んだというだけではなく、非合理を包摂しようとする全体化の美学との関係を読み込むことはできないだろうか。そして、スタンダールの抵抗がバルザックらの「百科全書」性にも向けられていたのだとすれば、イタリアを愛した19世紀のフランス人スタンダールと、パリに移住したことのある20世紀のイタリア人サヴィニオーニは、時代と国の違いを超えて共通の敵が相手になるようなある特異な「場」を共有していたのかもしれない。
石橋正孝(立教大学)
【発表概要】
山本明美(神戸大学)「文学場のハビトゥス──19世紀フランスにおける鏡表象をめぐって」
19世紀フランスの文学場でバルザック(B) らは作者が持つべき鏡は神の眼のような集光鏡、スタンダール(S) は個人の鏡と主張するが、その場合鏡とは自らの内に知覚された外的対象の表象なのか、それとも読者らに示す表象なのか?両作家の見解は作品構築に関わり、自らの小説の主人公に透視力を付与して超人化させ作者の眼の代わりをさせるBにとって個人の能力を超えないSの主人公は不可解である。Sはプラトンとアリストテレスを想像と理性とに同定する。この大要分析はプラトンの想像が神秘思想、唯心論を引き寄せてBらの文芸に流れ込み、アリストテレスの理性はスコラ学に至ってルネサンス芸術の胚芽として機能しSの唯物論的思考を支える二潮流の系譜を概説する。つまり神を中心にする文学場のハビトゥスと向き合ってSは魂の不死説から致命説、神から個人への意識変革を行ったルネサンス、理性の適用を拡大した啓蒙を保持する。無論Sの文芸の拠り所は理性ばかりでなく想像圏にもあり、このうち超自然は入れ子の中で語られる。究極の超自然とは遍在する全知全能の神である。ニーチェが羨むことになる無神論者は作品構成の観念模型を聖ピエトロ大聖堂円蓋の骨格に求め天頂には作者がアポリア的拮抗の間に立ついかなる対比・対話にも神を出現させない。文学場のハビトゥスは彼の鏡論と一体と見るべきエゴチスムの語義に関しても、今日の19世紀フランス霊仏学評論にも絡む。
野田茂恵「『新百科全書』──サヴィーニオの私家版百科全書をめぐって」
ギリシャ生まれのイタリアの作家、アルベルト・サヴィーニオ(1891-1952)は芸術の感性をモダニズムが花開いた20世紀初頭のミュンヘンとパリで培い、音楽家として出発し、その後表現方法を文学に移し、兄デ・キリコの影響で絵画にも専念し、多数の小説や思索的論稿を残した多才なディレッタントである。本発表では、自身の行動と芸術の指針であるディレッタントとしての多義的な洞察眼から生み出されるサヴィーニオの文学の特徴である諧謔性・アイロニーというキーワードを軸に、サヴィーニオの文筆活動の成熟期に書かれた散文形式のテキスト『新百科全書』(Nuova Enciclopedia)に焦点を当て、サヴィーニオの文学の特異性について考える。『新百科全書』の草稿となるテキストは1940年代前半にイタリアの新聞に掲載され、「悲劇」・「愛」・「ロマン主義」・「オルフェウス」といった抽象的概念から歴史や神話の人物名まで204からなる項目がアルファベット順に列挙され、それぞれに主観的な定義、訓戒といった形の短文が付されている。サヴィーニオは、広大な世界の隅々まで厳格に組織化しようとする百科全書的な知識を「閉じた知識」と批判し、虚構の物語の形式、風刺的エッセイ、文学作品に関する小論文形式の批評文といった百科全書では用いられない自由な形式によって百科全書の一項目に折りたたまれた世界の知識からははみだしてしまった個人的な記憶、語義の両義性を浮かび上がらせるようとする。