第10回研究発表集会報告 | 研究発表1 |
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2015年11月7日(土) 10:00-12:00
東京大学駒場キャンパス21KOMCEE(East 2F-212)
研究発表1
「ミュージカル・プレイ」と「ミュージカル・コメディ」のあわいで──ミュージカル『ビリオン・ダラー・ベイビー』における形式の趣向に対する考察
辻佐保子(早稲田大学)
モデルに倣う──ファッションにおけるパターンの出現
平芳裕子(神戸大学)
ガラスの社会主義リアリズム──フルシチョフのソヴィエト宮殿計画案をめぐる考察
本田晃子(早稲田大学)
【司会】北村紗衣(武蔵大学)
本セッションは「形式・スタイル」を扱うものである。それぞれの研究発表は1940年代のブロードウェイ・ミュージカル、19世紀半ばのアメリカの服飾、20世紀のソ連建築を扱っており、対象としている時代もメディアも大きく異なる。しかしながら、いずれも時代から影響を受けたスタイルとどう付き合うかということに着目したものであった。
辻佐保子の発表「「ミュージカル・プレイ」と「ミュージカル・コメディ」のあわいで──ミュージカル『ビリオン・ダラー・ベイビー』における形式の趣向に対する考察」は、ベティ・コムデンとアドルフ・グリーンが執筆し、1945年に上演されたミュージカル『ビリオン・ダラー・ベイビー』をテーマとしている。この発表は、従来の研究史では失敗作とされている本作を、ミュージカル・コメディとしての形式に挑戦するような作品として評価しなおす試みである。『ビリオン・ダラー・ベイビー』において、ミュージカル・コメディの伝統に従えばヒロインであるべきマリベルは共感しづらいキャラクターとして描かれ、見せ場となる楽曲も少なく、さらに物語の中では何度もマリベルがヒロインとなるような機会を否定する展開がある。作品の最後でマリベルはようやく富裕な投資家と結婚するが、その直後に大恐慌が起こって破綻が訪れる中、マリベルはチャールストンを踊り続ける。この終わり方は、劇中でずっとヒロインとしての立場を剥奪されていたマリベルが最後に踊ることでヒロインたり続けることを示しており、ミュージカルが慣習的に採用しているダンスによる華やかなフィナーレと似ているようで異なるものである。本作が上演された1940年代はミュージカルが大きな変遷を経験していた時期であり、ミュージカル・コメディという形式を利用しつつそれに変化を加えた『ビリオン・ダラー・ベイビー』は時代の趨勢にのっとった実験的な試みと見なすことができる。この発表はあまり知られていない作品を再評価し、歴史的背景の中に位置づけるという点において新規性があるが、質疑応答でも指摘があったように、ミュージカル・コメディやミュージカル・シアター、あるいはミュージカル・プレイといった舞台のジャンル用語が定義しづらいものであることがやや議論を難しくしていると考えられる。こうしたジャンルの定義は悲劇や喜劇といった舞台芸術全般のジャンル定義とも関わるものであり、さらなる議論の深化を期待したい。
ふたつめの発表である平芳裕子「モデルに倣う─―ファッションにおけるパターンの出現」は、衣類を縫うときに用いる型紙「パターン」が、19世紀半ばのアメリカにおいて女性と服飾の関わりにどういった影響を与えたのかを考察する発表である。国土が拡大していくいっぽうで伝統的な仕立屋は不足していた北アメリカにおいては、家庭で女性が服を作るため生地裁断用の型として使うパターンの需要があった。パターンは雑誌などによってプロテスタントのミドルクラスの家庭に広く流通したが、基本的にエフェメラであるため現存しているものは少ないという。本発表においては、パターンの流行によって自宅でパターンを用いて衣類を作る女性たちが「モデルに倣う」という意識に基づく身体的振る舞いを獲得していったことを指摘する一方、既製服とオートクチュールに偏りがちなファッション研究に対して、そのふたつよりも前に誕生した半ば大量生産、半ばDIYの側面を持つパターンを用いた自家製衣類作りという第三の視点を提供している。この発表は先行研究で言及されることがなかったサプリー夫人のパターンの先駆的役割を解き明かすという史料の発掘と分析を行っている点で服飾史的に意義あるものである一方、アメリカ史におけるメディアを通したイメージ共有という点では写真やパノラマ、初期映画などの普及に接続できるメディア史的に大きなテーマを扱った研究でもある。
最後の発表は本田晃子による「ガラスの社会主義リアリズム──フルシチョフのソヴィエト宮殿計画案をめぐる考察」であった。本発表は、1957年から59年にかけてフルシチョフのもとで行われたソヴィエト宮殿設計コンペディションを題材に、A・ヴラソフがデザインしたソヴィエト宮殿プランが作られた経緯とその特色を論じるものである。前史として既に1930年代に4回、ソヴィエト宮殿設計コンペティションが行われたが戦争などによる工事中断で建物が完成せず、スターリン死後の1950年代後半に再び宮殿建築が計画されたが、クレムリンに類似の機能を有する大会宮殿が建設されたり、担当者であったヴラソフが死亡したりしたため、結局ソヴィエト宮殿が建つことはなかった。この結局建築されることがなかったヴラソフの宮殿プランは庭園を持ち、柱の無い広い空間を有するガラスの巨大な建築物というものであり、オープンで民主主義的な空間というコンセプトを実現しようとしていた。建設予定地の脇にはモスクワ大学があったため、ソヴィエト宮殿は大学の大きな建物に劣らぬ偉容を示しつつ、コンパクトでシンプルにまとまったものでなければいけないという相反するコンセプトに適うようなものでなければならず、ヴラソフはレーニン廟の建築を参照することでこれを実現しようとした。本発表は、さまざまなクライアントの要求や時代の要請、形式の流行に反応しつつ特定のコンセプトを実現させようとする建築家のヴィジョンを史料読解によって見せてくれるものであり、50年以上前のソヴィエト建築を扱っているにもかかわらず、新国立競技場のデザイン案が世間を騒がせている現状を考える上でも示唆的な発表であった。
北村紗衣(武蔵大学)
【発表概要】
辻 佐保子(早稲田大学)「「ミュージカル・プレイ」と「ミュージカル・コメディ」のあわいで──ミュージカル『ビリオン・ダラー・ベイビー』における形式の趣向に対する考察」
劇作家ベティ・コムデン&アドルフ・グリーンの舞台作品は、「前時代のご都合主義なミュージカル・コメディの残響」という理解にとどまり、長らく研究対象とされてこなかった。活動初期(1938-1945) に焦点を当てた近年の研究では、リベラルな政治指向の作家として彼らは位置づけ直されている(Carol J. Oja, 2013)。しかし、先行研究からはコメディ作家としての特性や、作品のポテンシャルが掬い上げられているとは言い難い。
本発表では、二作目のミュージカル『ビリオン・ダラー・ベイビー、イカした1920年代についてのミュージカル・プレイ』(1945) に見られる形式の実験を作品分析から明らかにし、その意義をミュージカル史の文脈で考察する。1920年代後半を舞台にした本作は、ヒロインがアメリカン・ドリームを三度に渡って叶え損ねるというシンプルな物語を有する。しかし形式に着目すると、本作は一貫したスタイルではなく、1920年代から上演時に至るミュージカル・シアターの変遷を踏まえた三つのスタイルで叙述されていることがわかる。複数のスタイルで語ることを通じて何が試みられているのか。以上の問いを経て、「ミュージカル・プレイ」と副題が付された『ビリオン』から、「ミュージカル・プレイ」と「ミュージカル・コメディ」とにジャンルを腑分けし序列を構築する上演時の力学に対する批評性を見出すことを目指す。
平芳裕子(神戸大学)「モデルに倣う──ファッションにおけるパターンの出現」
パターンとは、衣服制作において布を裁断するための型を指す。印刷された縮図や実物大の薄紙など様々であるが、消耗される道具ゆえに現存するものは数少ない。従来行われてきたのは実証的パターン研究であるが、本発表では雑誌に掲載されたパターンを取り巻く言説・イメージの分析を通じて、パターンの出現がファッションと女性の関係にもたらした変容について考察する。
雑誌の表象として残されたパターン普及の跡は何を意味するのだろうか?本発表では、19世紀アメリカの女性誌を分析の対象とし、1850年代から60年代にかけてのサプリー夫人やデモレスト夫人の専門店から、1860年代後半に登場するアメリカ初のファッション誌『ハーパース・バザー』へと繋がる、パターンの考案、改良、頒布の変遷をたどりつつ、爆発的に普及していくパターンが当時の女性たちにもたらした意識と行為の変化を跡付けたい。
その変化とは端的に言えば、「モデルに倣う」意識の誕生である。パターンは、既製服産業とオートクチュール産業に先駆けて家庭内に流入した。女性たちは型通りに服を作ることで流行のスタイルを手に入れる。「モデルに倣う」という振舞いの習慣化は、パターンによる家庭裁縫が廃れてもなお、女性たちを流行へと駆り立てる。その意味において、「モデルに倣う」意識を誕生させたパターンは、服飾の近代化を印付けるものであるのだ。
本田晃子(早稲田大学)「ガラスの社会主義リアリズム──フルシチョフのソヴィエト宮殿計画案をめぐる考察」
1930年代に計4回開催されたソヴィエト宮殿設計競技は、ソ連建築の転回を決定づけた出来事だった。このコンペにおける幾度もの審査と再設計の過程を通して、1920年代のアヴァンギャルド建築の多様な活動は否定され、社会主義リアリズムと呼ばれる唯一絶対の規範が確立されたのである。けれども1953年のスターリンの死と、それに続フルシチョフのスターリン建築批判は、状況を一変させた。スターリン建築の頂点たるソヴィエト宮殿は「過剰装飾」や「虚偽のモニュメンタリティ」の名の下に断罪され、以降同様の様式でもって設計することは不可能になった。そしてそれに代わる新しい建築様式の選定の場となったのが、再度のソヴィエト宮殿設計競技だった。新生ソ連邦を象徴するこの新しい宮殿の建設は、フルシチョフによるクレムリンからモスクワ南西(ユーゴ・ザーパド)地区への首都機能移転計画の目玉となるはずであった。だがスターリンのソヴィエト宮殿同様、このフルシチョフのソヴィエト宮殿もまた、実際に建設されることはなかった。
本報告では、同時期のパヴィリオン建築(ブリュッセル万博ソ連邦館、ソコリニキのアメリカ・パヴィリオン)や新ソヴィエト宮殿周辺に計画されたモニュメント(パンテオンおよびレーニン記念碑計画)などとの関係から、新しいソヴィエト宮殿のデザイン、ひいては新しいソ連建築の規範がいかに規定・形成されたのか(あるいはされなかったのか)を論じる。