新刊紹介 単著 『知識の政治学 “真理の生産”はいかにして行われるか』

金森修(著)
『知識の政治学 “真理の生産”はいかにして行われるか』
せりか書房、2015年9月

金森修はこれまで科学者や医学者、あるいは科学に通じた哲学者たちの残した史料から思想史を描き、また、現代の科学に対して哲学的・倫理学的発言を続ける一方で、E. ゾラの文学を材料に遺伝学を論じ、摂食障害の概念史を扱うなかでA. ハックスリーの小説に言及するなど、科学思想史を広く文化史的に拡張し、フィクションを使って科学を論じる、あるいは科学思想に注目して文学を批評するという作業を行なってきた。本書にもまた、そうした〈科学文化論〉的実践というべき論攷が含まれているが、これまでの金森の著作とは趣きを異にし、自らの研究の基本的立場となる方法論や知識観、人間観を示した比較的抽象度の高い作品となっている。

タイトルの〈政治学〉という言葉はフーコーに由来し、或る行為が合法であるか違法であるということが自然に根差した普遍性をもつのではなくその時々の政治権力によって変化するように、或る知識が真理であるか否かは、その知識と事物とが正確に一致しているかどうかではなく、その知識を真理として認める条件が成立しているかどうかであるという意味での〈政治学〉的真理観が表明される。つまり、〈認識されたもの〉が〈実在するもの〉と一致することで人間は〈真理〉を獲得でき、そのような真理こそが〈知識〉であるという考え方を認めない立場であり、一種の反実在論、反自然主義である。そして、この哲学的立場を科学思想史の研究手法へと応用するプログラムが提示され、歴史のなかに「実在した」科学的概念だけではなく、いかなる意味であれ「実在したと考えられた」科学的概念は、それが「少なくとも一定程度の緊張と誠実さをもち、或る程度の合理性をもつ思考だとするなら、それが実在論的意味において、自然界の事象と合致するしないに拘わらず、その内容分析をし続けるという決断」のもと、科学思想史研究の対象たりうるという判断が述べられる。この判断は、科学の内/外を擾乱し、同時に、科学を扱うメタ学問である科学思想史の内/外をも攪乱する。こうした研究姿勢はときに虚構にまで目を注ぐことにもなり、それは膨大な〈言説爆発〉を引き起こし、収集のつかないものになりかねない。にもかかわらず、そのような科学史記載は実証的なそれよりも「遥かに面白い」という確信が宣言される。

後半では、〈政治〉という言葉は、フーコー的な〈知の成立条件をめぐる力動〉という意味から、より一般的な意味でのそれに、つまり同時代、特に日本の現実政治、ことに2011年3月の大震災と原発事故以降の政治状況へと接近する。原発の危険性を相対的に過小評価する形に作用したリスク論的言説の批判がなされ、社会の公共性が黄昏の時相を迎え〈生権力〉どころか端的な〈死権力〉と呼ぶべきものが現出している現状への直截な憤怒が表明される。そしてこの現状を突破する──さしあたりポストモダニズムと総称することができるであろう一連の哲学的試行を経たあとの現在における──活路として、ふたたびあえて〈普遍〉の価値を見いだそうとする議論がなされる。本書の基調をなすフーコー的真理観と──相互に排他的であるとまでは言えないとしても──明らかに相性の悪い〈普遍〉なるものの価値が最後の章で言祝がれると、幾許かの当惑を覚えぬでもない。しかしこれは現代の文明に対して根本的・総体的な批判を加えオルタナティヴを模索しようとする金森の学問人としての良識と決意である。そして、その決意は、文人(homme de lettres)的で名人芸的な金森の学問スタイルと、哲学的議論の文体としてはいくぶん過剰ともとられかねない文飾と相まって、読者を学問的=政治的に挑発するのである。(奥村大介)

金森修(著)『知識の政治学 “真理の生産”はいかにして行われるか』せりか書房、2015年9月