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哲学の本質と技術の系譜学
榑沼範久
ある「哲学の本質」は、その哲学の体系のなかで判断されるよりも、その哲学が「実際問題」に応用・利用された場合に露呈する。そのように戸坂潤(1900-1945)は述べていた(※1)。したがって戸坂的に考えれば、ある哲学がたとえば技術という「実際問題」を論じるときにも、その「哲学の本質」は露呈することになる。「哲学は正に実際問題の解決のためにこそ発生した、だからそのためにこそ夫は存在する」ならば(※2)、技術のような「実際問題」は、哲学にとって瑣末なことではないからだ。
たとえば、田辺元(1885-1962)はハイデッガーの講演「技術への問い」(1953)との対決を含む論考「生の存在学か死の弁証法か」(1958)のなかで、原子力技術という「実際問題」をどう扱っていたか。破局待望論ではないとしながらも、田辺は「原子力戦争」による「種の集団死」の場面に、「種としての人間集団を新しくする」希望、すなわち、自らの哲学―「菩薩道の死復活的弁証法」や「実存協同の愛」―の実現の可能性を見出している(※3)。原子力技術に代表される現代の技術を論じるにあたって、田辺はいわば「極大災害ユートピア」に賭けるしか、「実際問題の解決」の選択肢を無くしてしまうのだ。
田辺によれば、技術は「人類の福祉」という「本来」の目的を超えて、「無反省無統制」のまま「止まる所を知らぬ」という(※4)。はたして「人類の福祉」が、技術の「本来」の目的だったのか。そして現代の技術は、「本来」の目的を外れた自己運動をしているのか。もはや技術の自己運動は破局に至る運命にあり、哲学はその破局を待つか、それに警鐘を鳴らすことしかできないのか。最近では原子力発電所の大事故を背景に、木田元(1928-2014)もまた自己運動を「技術の正体」と見なし、そうした自己運動の自壊を待つ哲学者としてハイデッガーを紹介するとともに、人間には止めることができない技術を畏れる必要性を説くにとどまっていた(※5)。
こうした哲学が忘却しているのは戸坂的な「哲学の本質」、そして戸坂が『技術の哲学』(1933)で提示するような技術の系譜学だろう。技術のひとつの本性があるのではなく、ある特定の技術は、ある特定の政治的・軍事的・感性的方向性を持った社会空間・生活空間のなかで作動する。人文社会の研究活動が制限されていくなか、国家によって「厚い保護」を与えられている技術すら非政治的・中立的に見えるとしたら、それはある特定の「政治的制約」に視点が従属しているからにすぎない(※6)。
こうした技術の系譜学を放棄するとき、哲学は「実際問題の解決」という「哲学の本質」も忘却してしまう。「技術の正体」を自己運動と見なしてしまえば、技術が社会空間・生活空間のなかで作動するプロセスを無視するばかりでなく、破壊的技術とは別の技術の系譜(及び、別の政治的・感性的方向性を持った社会空間・生活空間)を開く可能性を閉じてしまうからだ。「自主的に自分の生活を防衛して行こうとする民主的な」世界の人々とともに(※7)、ある「政治的制約」への従属から自由になることを望むならば、われわれは歴史を「単線ではなくして長短無数の線の束」として捉え、「随所に横断面を作って見ることが必要」になるはずだ(※8)。そうした横断面を見出せるということこそが、別の系譜を開く可能性の徴なのだから。
榑沼範久
※1 戸坂潤『日本イデオロギー論』1935、岩波文庫、1977年、265頁;『戸坂潤全集 第二巻』勁草書房、1966年、357頁。
※2 戸坂潤『現代哲学講話』1934、『戸坂潤全集 第三巻』勁草書房、1966年、198頁。
※3 田辺元「生の存在学か死の弁証法か」1958、『死の哲学 田辺元哲学選IV』藤田正勝編、岩波文庫、2010年、251頁。
※4 同前、241-242頁。
※5 木田元『対訳 技術の正体 The True Nature of Technology』マイケル・エメリック訳、deco、2013年、6-14頁。
※6 戸坂潤『技術の哲学』1933、『戸坂潤全集 第一巻』勁草書房、1966年、246-247、257-258、275頁など。
※7 戸坂潤『世界の一環としての日本』1937、『戸坂潤全集 第五巻』勁草書房、1967年、3頁。
※8 戸坂潤『イデオロギーの論理学』1930、『戸坂潤全集 第二巻』27頁。