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リピット水田堯『原子の光(影の光学)』刊行記念トーク
この春に日本語訳が出版されたリピット水田堯氏の著作『原子の光(影の光学)』(月曜社刊)の刊行を記念する書評会が、芸術書を扱う京都の書店MEDIASHOPにて2013年6月28日、第8回大会の前日に開催された。このイベントでは、訳者の一人である門林の司会のもと、リピット水田堯氏本人に加え、哲学研究者の宮﨑裕助氏、映画研究者の三浦哲哉氏を迎え、視覚文化論と現代思想の両方にまたがるこの著作の意義について議論が交わされた(本書の概括については新刊紹介のコーナーを参照されたい)。
まず、宮﨑氏は、「啓蒙(光によって暗闇を照らす)」という近代のプロジェクトに内在する暴力性を指摘したアドルノとホルクハイマーやエマニュエル・レヴィナスなどの思想を参照し、本書の中核をなす「没視覚性(avisuality)」概念、原爆に例証されるように、光の経験でありながらもはや可視性の帯域に収まらないような経験を理論化するために提案されているこの概念が備える射程を20世紀思想の展開のうちに位置づけた。さらに、ジャック・デリダが「太陽比喩系(heliotrope)」として範例的に示した崇高論のロジック、呈示不可能なものの呈示という弁証法的なロジックに対して、リピット氏が「影のアーカイヴ」や「原子的痕跡」といった比喩形象によって展開しているロジックは、崇高そのものの消尽ないし破綻、宮﨑氏の言葉では「ポスト崇高」ないし「パラ崇高」的な契機を捉えているのではないかと問題提起がなされた。
続いて三浦氏は、自身の映画上映プロジェクト「Image. Fukushima」の経験を踏まえながら、放射線の不可視性ゆえ、福島の問題を表象の問題として捉えがたくなっている現状について、ヴィム・ヴェンダーズが飯舘村を訪れたエピソードなどを織りまぜながら紹介し、見えない放射線の恐怖が、将来に対する責任=応答可能性として、未来完了形で現れる(「この疾病の原因は放射線であったことになるかもしれない」)ことを指摘した。さらに、こうした未来完了形の状態、宙吊り(サスペンス)の状態が映画の経験にとっても本来的なものであることを指摘した上で、そうした経験が従来の映画観客論においては「わたしの経験」として記述されがちであるのに対して、リピット氏が「あなた」という二人称の契機を強調することで一人称的記述を拡散させていることの意義について質問が提出された。
二人の問題提起に対してリピット氏は自著で論じている様々な事例を引き合いに出しながら応答した。とりわけ、1895年における映画・精神分析・X線の同時的発見が、「わたし」という内面性を誰でもない「あなた」へと外面化する契機を生み出していたと指摘し、さらに、福島の問題に媒介されて、放射能の問題もまた、誰でもありうる「あなた(ユー)」の問題、「普遍的(ユニヴァーサル)」な問題へと拡散していっているのではないかと現状についても示唆された。その後の会場を交えた討議においても、1895年はセザンヌの初の個展が開催された年でもあるという指摘、『原子の光(影の光学)』における映像的思考のあり方、現代社会においては見ることの禁止が不在しているのではないかという問題提起など、活発な議論が交わされた。(門林岳史)