トピックス 1

第4回表象文化論学会賞受賞

学会賞
加藤有子『ブルーノ・シュルツ 目から手へ』(水声社、2012年4月)

受賞の言葉
あらゆる文学作品を読むことはほぼ不可能である以上、知らないと公言しても恥ずかしくはない作家といった類のカテゴリーが作られ、暗黙のうちに共有されていることがあると思います。文学研究でモノグラフィ、さらにその「読まなくてもよい」カテゴリーに入れられてしまうであろう東欧のマイナー言語作家に関する拙著は、賞や注目を浴びることを想定せずに出した、それでも留学時代も入れた長い博士課程の成果でもあり、思い入れのある初の単著でした。受賞の一報は思いがけず、読み間違いではないかという逡巡のあとには、嬉しさとともに、周縁的なものなどそもそも想定していない表象文化論らしい空気も感じました。審査の先生方、そしてこの本に至るまでお世話になった方々に心より感謝申し上げます。

ブルーノ・シュルツは両大戦間期にポーランド語で書いたユダヤ系作家であり、画家でもあります。シュルツに関するモノグラフィである拙著は、シュルツ作品の制作の原理に焦点をおくことで、絵画と小説という異なるジャンルのものを一つの論考のなかで有機的に論じる試みでした。なぜここにこの言葉や形象をおいたのか、ということを一次資料や周辺の資料にあたって突き合わせていくことで、20世紀のヨーロッパの辺境の作家の手による細部が、思いもかけない広い文化的な動脈につながり、一気に新しい光景が開かれる瞬間を何度か体験しました。その瞬間の積み重ねが一つの方向をとるようになり、できたのが本書です。

シュルツはゼロからの創作はありえず、一見新しく見えるものもすでにある祖形の反復と組み合わせによって生まれる、という作品観で創作しており、作品の細部にさまざまな参照記号が潜んでいます。読み手自体が変わり、新しい知識を投じることで新しい面を露わにするタイプの作品であり、今回の本が一つの区切りであるとはいえ、一生何かしらつきあっていく作家になると思います。

これまでジャンル、言語、地域などをまたぐ研究室に身を置いて参りました。今後も比較的な視野を活かしつつ、特に文学とその他の領域の行き来をしながら、そして、東欧を周縁化する力の作用に目をとめ、それを時に逆照射しつつ、一層研究に精進して参る所存です。


奨励賞
番場俊『ドストエフスキーと小説の問い』(水声社、2012年12月)

受賞の言葉
第四回表象文化論学会・奨励賞をいただきましたこと、大変光栄に思っております。と同時に、いささか気恥ずかしい気がしないでもありません。この賞は、あきらかに、私などよりずっと若い方々に贈られるのが通例でしょうから。とはいえ、面倒な推薦の労をとっていただいた先生方、および審査委員の先生方に感謝いたします。

拙著『ドストエフスキーと小説の問い』の内容に関しては、読んでいただくしか——それも、ドストエフスキーの作品を読んだうえで読んでいただくしか——ないわけで、ここでは触れません。

ただ一つ、この本がこれまでの表象文化論学会賞の受賞作品といささか違うところがあるとすれば、それは、この本のほとんどが、実際の教室で、実際の学生を相手にした「教育」の悪戦苦闘から生まれたものであるという点だろうと思います。新潟大学の一般教養の授業では、毎年、100人前後の学生に、『罪と罰』か、『悪霊』か、『カラマーゾフの兄弟』のどれかを強制的に読ませ、そのうえで、ドストエフスキーその人というよりは、「小説」という形式の歴史的条件について考えるという講義を、かれこれ10数年やってきました。ドストエフスキーにもバフチンにも小説にも、ましてや「表象文化論」などという面妖なものに関しても何の知識もない学生——とはいえ、生き生きとした知的好奇心にかけては誰にも劣らず、心の琴線に触れるような言葉を切実に求めている、そういう学生——を相手に、一方で権威的に「教養」を注入しつつ、他方でそれを「脱構築」し、なおかつそれを「分からせ」「面白がらせる」——そういう、たいへんつらい試みをつづけてきた、その記録が本書です。

当然のことながら、一度も成功したことはありません。毎年、自分の力不足を痛切に思い知らされてきました。

教育の場で日々直面しなければならない学生とは、「他者」です。ひょっとすると、表象文化論学会の内部ではけっして出会うことのないような「他者」かもしれません。表象文化論学会の内部で評価していただいたことに感謝しつつ、同時に、表象文化論とは縁もゆかりもない他者にむけて語り、書くという試みを、自らの課題として引き受けていこうと思っております。どうもありがとうございました。


奨励賞
御園生涼子『映画と国民国家 1930年代松竹メロドラマ映画』(東京大学出版会、2012年5月)

受賞の言葉
この度は表象文化論学会奨励賞を頂き、たいへん嬉しく、光栄に思っております。選考委員の先生方、また執筆・編集に際してお世話になりました、東京大学出版会の斉藤美潮さん、そして、迂回や脱線をくりかえしつつ蛇行しながら進んできた私の研究生活を導いて下さった三人の指導教官、松浦寿輝先生、佐藤良明先生、吉本光宏先生に、心から感謝申し上げます。

拙著・『映画と国民国家 1930年代松竹メロドラマ映画』の元型は、「越境する情動——1930年代松竹メロドラマ映画と近代における文化の流動性」という題名で東京大学総合文化研究科に提出した博士論文です。その題名の通り、この書物は、閉ざされた場所から脱出したい、その境界線を越えたい、複数の流れの中に飛び込んでいきたい、という衝動にも似た研究活動のなかから生まれてきたものだったように思います。結果的に、複数のディシプリン、複数の言語、複数の創造の現場を迷い歩くことになってしまい、大変時間もかかってしまいましたが、つたないながらも一つの書物を生み出すことができたのは、僥倖のようなものであった、と思っております。

もう一つ、私がこの書物に取り組んでいる間ずっと頭の中を離れなかったのは、人文学研究の制度の中でいまだ非嫡子的な場所に位置づけられている、「映画」という学問領域に対する思いです。なぜかいつも「周縁」に位置するものに惹かれてしまう私が、この「映画」という奇妙な人文学のアウトロー的学問に引き寄せられたのは自然な流れだったのかもしれません。その基礎的なディシプリンもまだ日本では認知されていない中で、この「学問」を引き継いでいこうとすることは(実際それが出来たかどうかは別として)、かなりのストレスを伴うものでした。けれども、こうした「マイナー」な学問においてこそ、やはり「マイノリティ」である人々——女性、外国人、無国籍者といった——に呼びかけ、その声をすくい上げることが、可能になるのではないか、そう考えることで何とか気持ちをやり過ごし、本という形に纏め上げることができました。そのような非常な「マイナー」性に貫かれた拙著が、学会奨励賞という晴れがましい賞を頂くことは、何だか不思議な思いがします。けれども、これをまた一つのステップとして、「映画」という領域を、やはり周縁部を逍遥しながらも、その体制的なディシプリンを内破していくような、そのような活動が許される場所として、表象文化論という場が存続していってくれることを、心から望んでおります。


特別賞
該当なし


(1)選考過程
2013年1月上旬から1月末まで、表象文化論学会ホームページおよび会員メーリングリストにて会員からの学会賞の推薦を募り、以下の作品が推薦された(著者名50音順。括弧内の数字は複数の推薦があった場合、その総数)。

【学会賞】

  • 阿部賢一『複数形のプラハ』(人文書院)
  • 岡本源太『ジョルダーノ・ブルーノの哲学 生の多様性へ』(月曜社)(2)
  • 香川檀『想起のかたち』(水声社)
  • 加藤有子『ブルーノ・シュルツ 目から手へ』(水声社)(2)
  • 番場俊『ドストエフスキーと小説の問い』(水声社)
  • 三浦哲哉『サスペンス映画史』(みすず書房)
  • 御園生涼子『映画と国民国家1930年代松竹メロドラマ映画』(東京大学出版会)

【奨励賞】

  • 加藤有子『ブルーノ・シュルツ 目から手へ』(水声社)
  • 御園生涼子『映画と国民国家1930年代松竹メロドラマ映画』(東京大学出版会)(2)

【特別賞】

  • 劉文兵『中国映画の熱狂的黄金期 改革開放時代における大衆文化のうねり』(岩波書店)

このなかで、学会賞として推薦のあった香川氏の著作については、著者が選考委員であるため、本人より推薦辞退の申し出があり、選考から除外した。

選考作業は、各選考委員がそれぞれの候補作について意見を述べたうえで、全員の討議によって各賞を決定していくという手順で進行した。学会賞については選考委員会の総意で、加藤氏の著作に決定した、奨励賞については、最終的に候補に残った番場俊氏、御園生涼子氏の著作が甲乙つけがたいという判断により、これら2篇を選出することになった(なお、番場氏の著作は学会賞として推薦があったものであるが、選考委員会の判断により、すべての候補作を学会賞と奨励賞双方の候補とすることした。両賞の規定については、今後検討しなおすこととなった)。

特別賞については、該当なしという結果となった。


(2)選考委員コメント

内野儀
今回の候補作については、ある意味では当然のことはいえ、そのどれもが高い学術的レベルを有しており、また、審査員の専門とはあまりにかけ離れているものもあるという事実があり、それらを比較して受賞作を決めることには、かなりの心理的抵抗があった。そのため、審査会用に用意したメモは、どれかを強く推すというより、それぞれの著作について、わたしなりの印象を記したものだけを用意してのぞむことになった(以下はそのメモからの抜粋である)。

加藤有子氏の『ブルーノ・シュルツ』は、膨大な資料を駆使した大部の博士論文/書物である。博士論文を出自にするだけに、先行研究との関係も非常に緻密かつ網羅的であり、チェコ語文献のみならず、ドイツ語文献にもくまなくあたっており(英語文献はもとより)重量級の著作だと思われた。奨励賞となった番場俊氏の『ドストエフスキーと小説の問い』については、個人的には何から何まで鮮やかであるという印象が残る。学術論文と批評的感性のきわめて生産的/創造的融合があり、類い希な作者の才能を感じさせる。博覧強記な記述のためのアーカイブの厚みと、口語的ともいえる表現を使ってもまったくその価値を減じるようにはみえないその文体は、すばらしいとしか言いようがない。奨励賞のもう一作、御園生涼子『映画と国民国家 1930年代松竹メロドラマ映画』は、加藤氏の著作に優るとも劣らない量と質をほこる重厚な映画論で、英語圏の批評理論に裏打ちされながらも、そこにとどまらずに映画を直視する作者の批評的眼差しが強烈であった。

残念ながら受賞には至らなかったが、三浦哲哉『サスペンス映画史』は、タイトルにあるように、サスペンス映画というジャンルに限定された論だったが、映画への愛というか、映画を観た体験がすべての出発点にあることが貴重であるように思われた。しっかりとしたクリティカル・ナラティヴに支えられ、グリフィスからイーストウッドへという論の流れもよくできており、分析のための道具立ても的確と思われ、その意味では読ませる本である。岡本源太氏の『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』は、とても禁欲的でよくまとまっているブルーノ論である。論述/記述もていねいで、大きな破綻は見られない。ただ、これにどのような学術的な意味があるのかにつき、審査員には、それを判断する立場にないことが心残りである。阿部賢一氏の『複数形のプラハ』については、この手の主題を扱うと、どうしても解説書的相貌を持たざるを得ず、そこをどう考えるか、迷うことになった。しかし、「コラージュとしてのプラハ」という枠組みについては非常によく練られて、そしてそのようなものとして、読後、プラハがその姿を現すことになるのは印象的であった。

香川檀
今年度は、例年にもまして「豊作」の年だったようだ。いずれ甲乙つけがたい秀作揃いで、選考には苦労したが、わくわくするような知的興奮に幾度も浸ることができた。加藤さんの受賞作は、ブルーノ・シュルツの絵画・版画から文学までを包括して論じた力作で、ポーランド文学という枠組みを超えた射程をもっている。現実と虚構、オリジナルと複製、制作と受容の問題など、表象論の根幹にかかわる問題と鮮やかに交差させているところが見事。阿部さんのプラハ都市論は、開かれた「複数形」ということで凝集力のあるモノグラフィのような声高さがなかったが、文学から美術・音楽までを扱いながら、都市の見えない亀裂や襞を浮かびあがらせて味わい深かった。反対に、三浦さんのサスペンス映画史は、疾走するような語り口で読者を引きさらう。個人的にはイーストウッド映画の「傷」の表象がどうしても気になった。そして、これもやはり惜しくも賞に漏れたが、岡本さんのジョルダーノ・ブルーノ論は、簡明な文体でブルーノの思想のアクチュアリティを切り出していて、並々でない力量と、研究の蓄積を感じさせるものだった。無駄を削ぎ落した簡潔さが、重量級の著作と並ぶと淡泊すぎると受け取られがちだが、哲学を語るスタイルとして、とても魅力的だった。

杉橋陽一

・学会賞
加藤有子『ブルーノ・シュルツ 目から手へ』

両大戦時間ポーランド・ガリチアのユダヤ系作家にして画家であるシュルツを、作家・画家の両面から包括的かつ詳細に捉えようとする試みとして、大いに評価に値する。かれはソファに座る若い女性の足下に屈従的に横臥したり、足で自分を蹴ってくれと頼んだり、あげくはモデルの女性のエナメル靴からワインを飲んだりしたが、加藤さんは多くの傍証を挙げながら、シュルツはマゾヒストでなく、むしろその意識的な演技者であったとし、ここにおいてザッヘル=マゾッホの追随者説は退けている。またその副題の示すように、作家・画家が幸福に両立した芸術家としてシュルツを示して、関係資料を可能な限り渉猟してその主張を裏付けた、すぐれた研究になっている。

・奨励賞
番場俊『ドストエフスキーと小説の問い』

フロイト、バフチン、さらにデリダ、中村健之介などのドストエフスキー論の影響を受けつつ、このロシアの大作家が途中速記技法にも拠りつつ書くこと、そして現代でその小説を読むことなど重要なトポスについて、巧みな語り口で「反ドストエフスキー的」に解き明かしている。こうした解明から暑苦しくないドストエフスキー論が結果として出てきた。

・御園生涼子『映画と国民映画 1930年代松竹メロドラマ映画』

まず 「帝国主義」の概念を主としてハンナ・アーレントによりながら規定して行きながら、また Nation を固定した実在としてではなく「集団の境界が構築されてゆく過程」として、サイード以降の言説を咀嚼しながら、そうした運動として捉える————こうした導入部分における元気の良いスタンスが、過不足なく松竹メロドラマ映画の分析でも守られている。

中村秀之
過半数は専門外の、しかも渾身の力作ばかりを短期間に集中的に読むという作業は、引き受けた責務の重さからすれば苦役であってもおかしくない筈だが、実際にはそれを忘れさせるほどの知的な興奮と喜びに満ちた、さながら読むことの祝祭にでも招かれたかのような貴重な経験だった。 加藤有子氏の『ブルーノ・シュルツ 目から手へ』は、ほとんど武骨とも見えかねない実直な論述のその先に、シュルツの「手」の仕事が創造した独自の精妙な世界を説得的に現出させる。手堅い実証性と冷徹な批評性を備え、具体的な対象への肉迫を通して表象をめぐる普遍的な思考への刺激も与えてくれる点に深く心を動かされた。

番場俊氏の『ドストエフスキーと小説の問い』は、待ち望まれた初の単著だが、のっけからドストエフスキー嫌いで名高いナボコフを引用する身ぶりが予期させるとおり、この作家の清新なイメージを鮮やかに提示した痛快なテクストである。メディア論的な知を自在に駆使する緻密で軽やかな手さばきには感心させられるばかりだった。

御園生涼子氏の『映画と国民国家 1930年代松竹メロドラマ映画』は、松竹メロドラマ映画の読解を通して両大戦間期における資本主義的論理と領土的論理との相克を明らかにしようとした、ほとんど豪胆ともいうべきtour de forceである。問題提起の書として、今後の活発な議論を触発することが期待される。

上記の受賞作以外で私が特に興味深く読んだのは、岡本源太氏の『ジョルダーノ・ブルーノの哲学 生の多様性へ』である。ブルーノの豊穣でアクチュアルな思考を厳選された少数の切断面に映し出そうとした試みは、門外漢にも十分に魅力的で啓発的だった。ただし、その戦略が周到に練られたものであろうと推察しつつも、文献学的な醍醐味をこれでもかと堪能させてくれる重厚長大な書も読んでみたいと思ったことを正直に書き添えておく。