研究ノート 榎本 千賀子

「心」を写す写真
――明治初頭の写真受容と「心」の道徳哲学
榎本 千賀子

1. 今成家コレクションの問い――写真における「心」の表象可能性/不可能性

新潟県南魚沼市六日町の旧家である今成家には、十九代目当主の今成無事平(1837-1881)、その弟である新吾らを中心に、今成家の人々が撮影したといわれる湿板写真が伝わっている ※1。無事平は1866[慶応2]年頃に、経歴不明の写真師、大鐘立敬 ※2 より写真術を学んだ。そしてその後、地方行政・政治に力を入れ始める1873[明治6]年頃までの間、写真撮影を行なっていたらしい。今成家には、52枚の湿板写真の他、大鐘から学んだ内容を整理した技法書や、薬品等の売買に関わる書類、写真関連メモなどが多数残されている。

今成家の写真コレクションは、明治初頭の在村指導者層における写真術受容の様相を比較的文脈が保たれた状態で伝える貴重な事例であるといえる。さらには、このコレクションは大鐘立敬という先駆者の詳細を知る手がかりとしても期待できる資料であり、先駆者たちの実験的試みに引き続く、明治期における写真術の急速な普及を詳細に解明するうえでも、今後重要な役割を果たしてゆくと考えられる。

さて、この今成家コレクションのなかに、黒々と影が落ちる軒下と思しき場所で、錦絵を胸に抱え、着物を肩にかけた不思議な肩脱ぎをする、ひとりの男が写った一枚の写真がある(図1)。この写真は、写真以前の視覚文化や西洋光学機器の受容を参照することで、西洋由来の新技術たる写真を位置づけることを試みる、一種の「写真論」として読み解くことができる ※3。そして、この「写真論」は、写真における「心」の表象可能性/不可能性をとりわけ重要な問題として写し出している。

写真に写る男が抱える錦絵には、月代を伸ばした男が、黒紋付の袖をたくし上げ、刀を手に巾着を口にする姿が描かれている。また、男の周囲は楕円形の枠で囲われ、この枠の上部には百合と思しき花が描かれている(図1部分)。残念なことに錦絵に書かれた題名その他は読み取れない。しかし、錦絵の人物像を取り囲む楕円形の枠は、役者の代表的アトリビュートである鏡を表すものと判断できる。また、鏡と植物を組み合わせた意匠からは、この錦絵が役者を花に見立て、鏡像として描く、豊原国周『咲揃見立葉名方(さきそろうみたてのはながた)』1871[明治4]年シリーズ(図2)の一枚であると推定できる。さらに、髪型や服装等からは、描かれた男が忠臣蔵五段目に登場する斧定九郎であるとわかる。

また、錦絵を男が胸部に抱えるこの写真の特徴的なポーズは、西洋由来の光学技術である写絵をインスピレーション源とした山東京伝の『人心鏡寫繪(ひとごゝろかゞみのうつしゑ)』1796[寛政8]年(図3)を参照したものであると考えられる。『人心鏡寫絵』は、人の視覚を越えた力を持つ西洋の光学技術と、心学を結びつけた黄表紙作品である ※4。この作品では、登場人物の本性や隠された本心=「心」が、胸部に写絵の映像よろしく写し出される。そして、可視化された外見と「心」の落差に対し、京伝扮する心学先生が面白おかしい講釈を加えてゆく。今成家の写真は、肩脱ぎをした男の胸部に周囲とは位相の異なる鏡像=映像を重ねあわせているが、この一見奇異な趣向は、登場人物たちの胸部に位相の異なる「心」の映像を写し出す、この『人心鏡寫繪』の着想を借りたものと考えられるのである。

しかし、今成家の写真は、「心」を写すはずの映像=鏡像に、『人心鏡寫絵』では僅かに名前が言及されるのみで描かれることのなかった定九郎を写し出す。そして、このことによって、今成家の写真は映像と「心」の関係に対し『人心鏡寫繪』とは異なる態度を示していると考えられる。『人心鏡寫繪』では、写絵が「心」を写し出す力が疑われることはなく、「心」を写す映像のありようが問題となることもない。『人心鏡寫繪』は、ただ写された「心」と外面の落差に関心を寄せるだけである。これに対し、今成家の「写真論」では、写真が「心」を写す力自体が問われてゆくのである。

定九郎は、塩冶判官の家老斧九太夫の息子でありながら勘当されて落ちぶれ、仇討ちに参加しないばかりか、早野勘平の父から勘平の仇討ち軍資金を強奪する不義士である。この役は、かつては時代がかった褞袍の山賊姿で演じられていた端役であった。しかし、1766[明和3]年、初代中村仲蔵は、冴えない小悪党でしかなかった定九郎を、白塗りに黒羽二重の当世風の浪人姿で演じた。仲蔵は、善玉の色男に付されてきた柔弱な外貌と残忍な性根の鮮やかな対比が印象的な、色悪へと定九郎を刷新したのである。そしてこの後、定九郎は若い人気役者によって演じられる重要な役となった。色悪の成立は、歌舞伎におけるより複雑な人物像の表現を可能にしたともいわれている ※5

今成家の写真において「心」が写るべき位置に提示されるのは、もちろん仲蔵による再解釈を経た定九郎の姿である。だが、この定九郎の姿は、『人心鏡寫繪』のようには「心」を可視化することはない。外貌と本性に齟齬を抱える定九郎の姿は、不可視であるはずの本性・本心=「心」を明らかにするというよりは、「心」と外見の齟齬それ自体を主題化するのである。そしてそれは、写真をはじめとする映像における「心」の表象可能性/不可能性を問いかけることにほかならない。

無事平は、こうした写真に「心」の表象可能性/不可能性の問題に強く惹かれていたらしい。無事平が遺した写真に関する都々逸には、次のような一節がある。

思ひやつれしかほうつすより うつしてみせたへ胸のうち
(今成家文書より、日付等記載なし)

写真に強く関心を寄せ、写真術を実践した無事平は、『人心鏡寫繪』のような映像が「心」を写すのだという過去の想像力を踏まえつつも、実際の写真において「心」や「胸のうち」を写す困難を深く実感していたのであろう。

だが、今成家の「写真論」において、写真における「心」の表象可能性/不可能性が問題であるのだとして、新たに問題となるのが、次の二点である。第一に、「心」の表象可能性から写真を捉える、このような写真観は、果たして無事平や今成家のみに特殊なものだったのだろうか。第二に、このような写真観が一般に共有されていたのであれば、それはいかなる認識枠組みから生み出されていたのだろうか。今成家の「写真論」をさらに検証し、写真史・メディア史の広い文脈のなかに位置づけてゆくには、これらの問題を明らかにする必要がある。また、これらの問題を解くためには、写真と「心」を関係付ける事例を挙げるとともに、詳細に分析してゆく実証的なアプローチが求められるであろう。

そこで筆者は現在、都市を中心に識字層から準識字層までを含む幅広い階層に親しまれ、写真や写真師に関する記事も数多く掲載されていた小新聞を中心として、写真に関する言説の検証をすすめている ※6。調査は端緒についたばかりであり、結論は未だ遠い。しかし、本稿では二つの例を紹介しながら、ここまでに得られた展望を示したい。

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[脚注]

※1 今成家コレクションの写真は、新潟大学人文社会・教育科学系地域映像アーカイブとして学内公開されており、学外からも申請の上閲覧できる。新潟大学 人文社会・教育科学系(人文学部)「地域映像アーカイブ」(http://www.human.niigata-u.ac.jp/ciap/、2013年7月31日)

※2 大鐘については、『武江年表』(斎藤月岑著、金子光晴校訂『増訂武江年表』第2巻、平凡社、1968年、139−140頁)や写真師の番付表「東京写真見立競」1877[明治10]年に言及があり、鵜飼玉川らと並ぶ関東における写真術のパイオニアの一人であったと考えられる。

※3 榎本千賀子「合わせ鏡の写真論—新潟県南魚沼市六日町今成家の写真に見る写真経験への江戸文化の影響」『言語社会』7号、2013年、193−208頁。http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/25711/1/gensha0000701930.pdf

※4 山東京伝全集編集委員会編『山東京伝全集』第4巻、ぺりかん社、2004年、10-34, 590-591頁。

※5 定九郎については河竹登志夫(監修)『歌舞伎登場人物辞典』白水社、2006年のほか、以下を参照。署名なし「定九郎物語」『演劇界』第9巻11号、演劇出版社、1951年10月増刊号、45-48頁。山本二郎「定九郎の型」『国文学 解釈と鑑賞』第32巻13号、ぎょうせい、1967年12月、97−98頁。野口武彦「色悪・定九郎の変貌 『忠臣蔵』パロディにみる」『すばる』第24号、集英社、1976年6月、108-121頁。郡司正勝「『仮名手本』の二人の不義士 定九郎と勘平」『国文学 解釈と教材の研究』第31巻15号、学燈社、1986年12月、54-56頁。また、色悪については、以下を参照。河竹登志夫「色悪考」『河竹登志夫歌舞伎論集』演劇出版社、1999年、314-327頁。

※6 小新聞とその読者の階層については、土屋礼子『大衆紙の源流−−明治期小新聞の研究−−』世界思想社、2002年を参照。ここで準識字層と呼ぶのは、漢字の読み書きは十分ではないが、平仮名の読み書きに不自由はないという層である。小新聞は総ふりがなで、準識字層までを主たる読者としていた。

図1:1871[明治4]〜1873[明治6]年、70×49mm、湿板写真(デジタルデータ:にいがた地域映像アーカイブ・データベース所蔵)

図1 部分

図2:豊原国周『咲揃見立葉名方』「一寸徳兵衛 尾上菊五郎」1871 [明治4]年、大判錦絵、東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

図3:山東京伝『人心鏡写絵』1796[寛政8]年、早稲田大学図書館蔵